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瓶を売る男 第一話~雨と友~ 7/8

坂上Ⅲ
 
 傘を差しても横殴りの雨に腰から下が濡らされる。それでも坂上は走った。立ち止まったら窒息しそうだった。雨の幕に濁る視界の中に、あの店の看板が見えてきた。軒先で傘を閉じてガラスドアを開ける。乱れた息を整えながら見渡すも、あの少年はいない。
「いらっしゃいませ。おや、坂上様ではありませんか。ずいぶん早いご来店で。それとも瓶は届かなかったかな?」
 整ったスーツを着てハットを被った男が現れた。以前この店で会った店長、たしか遠藤という男だ。
「あんた、何をした!」
 坂上が叫ぶと、遠藤は薄ら笑いを浮かべた。ああ、やはりこの男が何かしたのだ。腹の底から熱さと冷たさが混じったものが沸き上がる。怒りは熱く、憎悪は冷たい。
「ひとまず部屋へいらっしゃい。お茶でも飲みながら聞きましょう。よろしければタオルもご利用ください」
 坂上はタオルを断った。遠藤の服装や態度は以前より礼節を増していたが、それが逆に、こちらへの距離の近さを感じた。なにやら余計にこちらに踏み込まれているような、そんな不快感があった。
 二人は例の客室に着いた。以前と同じ中央の応接セットには、見覚えのない大きな瓶がある。それが何かは分からないが、えも言えぬ安心感が伝わってくる。自分の部屋の一部がそこにあるような感覚だ。店長自ら紅茶を入れた。あのアルバイトの少年はいないのか。
「さて、新しい瓶はお届けしたはずですが、本日はいかがされました?」
「ふざけるな。どうして智也が瓶を持ってきた。あいつはなんで俺を忘れていた。お前らが何かしたんじゃないのか!」
 遠藤が紅茶を一口含んだ。湯気の昇る紅茶は、雨で体の冷えた坂上を誘ったが、それでも坂上は目の前の男に詰め寄った。
 静かにカップを置いた遠藤が、一息ついてゆっくりと口を開いた。
「証拠は?」
 低く、射抜くような声だった。それでも坂上は食いついた。野木から受け取った小瓶を机に置き、坂上は言った。
「これを持ってきたのは野上智也だった。その智也は小林から渡されたと言っていた。どう考えてもこの店以外ありえない。だから聞くぞ。あいつに何をした」
「ではこちらも問いたい。君は野木氏に何をした?」
 先ほどより低く重い声で返された。夜の深い海を見ているような心地だ。向こうから加害する気配はないが、こちらから寄ればきっと危うい。だがこの男はそれより危険だ。こちらを暴こうとする。
「あんたには関係ない。早くあいつを元に戻せ」
「それは誰のためだ?野木氏のためか?」
「当たり前だろ!あいつの記憶はあいつの物だ!あいつの記憶が欠けたらあいつの人格が欠けるようなもんだろ!」
「本当に、本当に彼のためか?微塵にも君の自己満足や責任逃避が含まれていないと言えるか?」
「うるさいぞあんた!さっきから」
「いいから答えろ。向き合え。君が彼のために記憶を取り戻したいのも、仲違いに苦しんでいるのも、完全に相手のためだと言えるか?」
 遠藤の声が息苦しくなってきた。
 どうしてこの男が仲違いの話を知っているのか。受験の悩みしかこの店に持ってきていない。ましてやその受験の話に一切触れない。坂上の本当の悩み、苦しみの根源に気付いて、それをこの男はぶつけてきているのだ。
 話を逸らすことはできまい。この男は、坂上がずっと避けてきた苦しみに強制的に向き合わせている。ならば、向き合うまでだ。
「そんなわけ、ない」
「ほう?」
「悪いかよ!自分のために謝りたくて、罪悪感から逃げるために許されたいと思って、何が悪いんだよ!みんなそうだろ!」
「たしかにみんなそうだ。今の関係を修復したいと望むのは例外なく、相手を、それ以上に自分を想ってのことだ。例えば君は野木氏の記憶は彼の人格の一部だから返せと言ってきた。ならば彼の、君以外の人間の記憶を失ったとき、同じことが言えるか?今と同じくらいの熱意で俺に食いついてくるか?」
「そんなの…」
「そう、君は親友が自分を忘れたからここに来た。ある意味自分本位な願望だ。それなのに君は“あいつを元に戻せ”と、まるで彼のためであるかのような要求をしてきた。もう気付いたか?君がここに来たのは親友のためじゃない。君が、君自身のために来たんだ。もし親友のためを思うなら、同じく親友である君と傷つけあった記憶を何故返そうとする?嫌な記憶を忘れた友と関係を修復すればいいだろう」
 遠藤の言うことは、もっともだった。野木のためを思うなら、今の野木は坂上の思い出を失ったことに何か弊害でもあるのか。何不自由なく生きているなら、それでいいのではないか。自分を思い出してほしいというのは、たしかにエゴかもしれない。親友のためと言いつつそれは自分のためなのかもしれない。
 だが、それでいいではないか。記憶を失った野木と新しく関係をやり直すこともできる。そうすればこちらが謝ることなく関係を修復できる。それが野木にとって迷惑なことは無いはずだ。お互い喧嘩した記憶など、野木にとっては忘れた方がいいのかもしれない。
 だが何故だ。頭ではそれでいいと言っている。だが胸の奥、胸と腹の間にある何かが、それを良しとせぬと言わんばかりに焦げ付くのだ。
 現に見るがいい。目の前のどす黒い小瓶を。彼から受け取ったこれは、坂上の手に移るやすぐさま黒く濁った。受験のプレッシャーでも十日かけて満たした心の濁りが、豹変した野木を目の当たりにしてすぐさま溢れんばかりに濁った。
 額に熱い汗を感じるなか、遠藤がさらに言葉を加えた。
「言っておくが今すぐ決めろ。野木氏の記憶はこの瓶に入っているが、この瓶は今日の日暮れまでに中身もろとも消滅する」
 それを聞いて血の気が引いた。坂上にとっては難しい決断ではない。だが実行するのは強い躊躇いがある。ましてタイムリミットは今日の日没まで。期限があまりにも短いとこれから自分のすることの流れが鮮明に頭に浮かぶ。口の中の苦みと、激しさを増す鼓動に急かされる。
 全身に汗がにじむ中、遠藤がため息をついた。
「もういい。友のために決断できないというのが君の答えだ」
 そう言って遠藤は瓶を放り投げた。瓶は坂上の頭上を弧を描きながら後ろの壁の方へ飛び、急いで立ち上がって振り返ると、パーカーとスニーカー姿の小林がその瓶を受け取っていた。
「行け。小林」
 遠藤が言うや否や、小林は何も言わず瓶を持って外へ走った。腹の内に冷たく鋭い焦りが刺さった。
 坂上は椅子を蹴るように立ち上がり、その後を追った。その時、壁の棚に立てかけられた瓶の一つが微かに震えた。—そこに自分の名前がラベリングされているなど知る由もなく—。
小さな背中は店のドアを出て激しい雨に消えた。坂上は傘もささずずぶ濡れになりながらその後を追った。白く曇る視界に轟く雷鳴。日の傾きがよく分からず。残された時間が正しく把握できない。空には黒と白の入り混じったどっちつかずの濃い雲で満たされている。それがどこか、坂上の不安を集めた瓶に見えた。
小林は大通りを避け、小道を選んで走っている。近づかなければ見失いそうなほど視界が悪く、かといって急ぎすぎても転びそうな足元の悪さだ。やがて人気のない郊外の川沿いに出た。いつもは穏やかな川が轟轟と激しく暴れ、削り取った土で己を濁している。小林との距離が近づいた。こちらの息も限界だが、小林も足が遅くなっている。
追いつける。そう思った途端、小林が突然振り返り、瓶をこちらに投げてきた。
坂上は驚きながらも宙を舞う瓶を抱きかかえて受け止めた。しかしその時態勢を崩し、大きく転んだ。咄嗟に肘で地を受け止め、肩と背中で転がってようやく足をついて立ち上がった。制服がドロドロだ。明日が土曜で良かった。
「坂上くん?」
 聞き馴染みのある声が聞こえた。振り返ると、野木が傘をさして立っていた。泥を払いながら息を整える坂上に、野木は傘を差しだした。こっちはもう濡れているというのに、そしてお前も濡れるだろうが。
 そして気付けば、ここはあの時二人が喧嘩した橋に差し掛かっていた。この橋を渡って野木が向こう側へ行けば、それぞれの道は違えたままだ。野木は悪い思い出を忘れる。それでいいのかもしれない。その方が幸せかもしれない。親友を、自分が濡れてまで相手に傘を差しだす優しさの持ち主を、二度も傷つけるのだ。この瓶は、ここで荒れた川にでも捨てた方がいいのかもしれない。
「その瓶大事なんだね。中身は分からないけど」
 野木に言われ、坂上ははっとした。
「家まで送るよ。坂上くんの家ってどっち?」
「あのさ、聞きたいんだけど」
「ん?」
「お前は、誰かと喧嘩したことある?」
 坂上が聞くと、野木は笑って答えた。
「喧嘩できるほど近しい友達がいない。でももし喧嘩したなら、俺だったらその日のうちに謝る。だってさ、嫌な空気を長いこと引きずるのって嫌じゃん。俺は身に覚えないけど、喧嘩したら絶対すぐ謝るって決めてるよ。だって相手に同じ気持ちさせるの嫌だもん」
 野木はそう言った。嘘だ。あの時謝らなかったじゃないか。だが微かに俯く野木の眼差しは、正体の分からぬ後悔を宿していた。
 どうしてだ。何に悔やんでいる。記憶にない喧嘩の傷はこの瓶に閉じ込めてある。それなのになぜ、何かをやり直したいような声色を発する。
 野木は、自力で自分の行動を決めるのが苦手な奴だ。自分の気持ちの表現が苦手な奴だ。そのもどかしさが息苦しそうだったから。いつも坂上が代わりに手を焼いていた。遠藤の言うように、それは自己満足かもしれない。自分がそうしたいからそうしているのだ。
 だがその自己満足に、野木はいつもついてきてくれた。長い間友と慕った。気付かぬうちに互いを親友と呼び、ついに互いの逆鱗に触れ、今に至る。
 坂上の気性により、仲違いした時間よりも慕った時間の方が長いではないか。他からぬ自分自身を友と呼んだではないか。
 野木が求めるのは、いつもの俺なのか?
 俺自身ならどうする。坂上なら何故躊躇う。何を恐れ、何に怯えている。ふざけるな。こんなもの俺ではない。親友の目の前で無様に怯える姿を晒してなるものか。たとえ野木がこちらを忘れようとも、この男は俺の友ではないか。
 ああそうだ、俺がいつも無鉄砲なのは、いつも恐れ知らずで突き進むのは、こいつの前を進みたいと思っているからではないか。
 友よ、お前に貰った勇気を、返させてくれ。
「野木、言っておくが、先に謝るのは俺だ」
「え?何が?」
 坂上は瓶のコルクに力を込めた。開けた途端、瓶がいきなり重みを失った。消えた重みの行方は分かっていた。だが背負うのは一緒だ。一瞬遠くを見つめてこちらを見る野木に、坂上はすぐさま頭を下げた。

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