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「しらんけど」くらいの距離感で。

関西人には使い勝手のいい魔法の言葉がある。

「しらんけど」

使い方の例としてはこうだ。

明日、雨降るらしいで。しらんけど。
ダイエットにはバナナがええらしいで。しらんけど。

なんて無責任な言葉だ。

だけど関西人にはわかる。
この言葉はとても優しい言葉なのだ。

「しらんけど」は言葉であり”文化”

起源は関西にある「商人文化」。
【会話の中で場を盛り上げふとした瞬間を広げ、拾い、商売に繋げる】
かららしい。

明確な線引きではなく、自然な流れから生まれる商売文化だからこそ”曖昧な表現”が受け入れられるんだとか。(ちなみに「武士文化」である江戸では、曖昧な情報を流すと命を晒す恐れがあったらしい。なので”明確な表現”が好まれていたとかなんとか)

多様な生き方や価値観が広がる社会の中で、昔から「笑い(ユーモア)」がベースにがある関西が持っている独自の良い文化だと思う。
しらんけど。

正しいよりも、楽しい方を

言い換えるならイデオロギーよりもユーモアだ。

イデオロギー(社会主義、民主主義、資本主義、○○すべき!)を持つからこそ、喧々諤々プンスカし合う。

でも、ユーモア(楽しいか、面白いか、好きかどうか)を基準に判断ができれば「だって戦争怖いやん、面白くないやん、とりあえず一回止めてお茶でも飲もや。」ってことになるかもしれない。

その言葉は全ての責任を帳消しにする。
その言葉はコトの所在を曖昧にする。
その言葉は熱くなって話してしまった自分の照れを「冗談だよ」という霧の中に隠すことができる。

軽くてゆるい。
ユーモアを含んだ上で、なにかをフラッとに戻してくれる、まるで魔法のような言葉。

そんな「ちょうどいい距離感」をとれる言葉だ。

ちょうどいい距離感ってんなんだろう。

ずっと自分は”コミュニティ”という言葉を考えながら感じてきた。
「コミュニティを作りたい!」なんてことを口にしてきた。
自分の居心地の良い場所を探すように、たくさんの仕事や場所を経験してみた。

そこで分かったことは、コミュニティどうこうの前に、人との距離感が大事だということだ。

「浅く、広く」だと心からの関係性は結びにくい。例えば名刺交換や肩書きで繋がることは簡単だけど、いざという時に顔が浮かぶとなればきっと別。
そもそも名刺や肩書きで繋がってしまうと、距離感がとりずらい。

「狭く、深く」のコミュニティにはそれなりのしがらみが生まれる。オープンなフリして実際はクローズだな思うこともある。
土足で心の奥までずうずうしく上がってくる人は苦手だし、せめて靴を脱いで、新品の靴下に履き替えて上がって欲しいと思う。

自分は共感性が高すぎて「狭く、深く」のコミュニティは居心地が悪く、逃げ場がない場所だと息苦しさを感じてしまう。だから自分には向いていないようだった。

でも、深く関係性を築きたくないわけではない。
むしろ、何か困ったことがあれば手伝いたいと思える人がいることはとても幸せなこと。

そんな多くの人と、深く関係性なんて結べない。
と、いうか、結ばなくていい。

「しらんけど」くらいの距離感で。


浅く、広く、ときどき、深く。
言うなれば【「しらんけど 」、くらいの距離感】が自分にはちょうどいいとわかってきた。

どんな人なのか?
なにを面白いと思っているのか?
仕事や肩書きだけではなく、「この人、人としてどんな人なんやろか?」を感じたい。

【会話の中で場を盛り上げふとした瞬間を広げ、拾い、商売に繋げる】
商人文化で生まれた曖昧だからこその「しらんけど」な文化の起源と、なんだか一緒なような気がしている。

おもろかったらええやん
まあしゃあないやん
そんなこともあるし、そんな人もいてもええやん

そんな受け取り方をするには、ちょうどいい感じの距離感を保つことが大切。

だって、この世界に同じ人間などいないから。
そんな距離感で関わることができれば、優しい社会に繋がる一歩になるんじゃないかな。

白か黒か、正しいか正しくないか、誰かの正義と誰かの正義がぶつかり合い、誰かを傷つけ抉り取られるこの時代。「しらんけど」と最後につけるだけでちょっと世界が朗らかになると思います。

しらんけど。


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