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よし!転職しよう①

まさに、今転職を決め有給消化に入った40代のサラリーマンの赤裸々な日常をお届けします。

私は、地方在住の元ソフトウェアエンジニアのAKIRAと申します。

この記事は、私の体験を元にした転職に関する様々な出来事や、転職に至るまでの過程や背景、どうやって転職したか、転職して良かったのか悪かったのか、などなど多少のフィクションを交えつつお届けできればと考えています。

なので、転職を考えている方や、転職した事のある方、サラリーマンをやっていれば、感じるであろう【あるある】といった話や【ふーん】といった役に立たない話をダラダラとしていきたいと思います。お暇潰しになれば幸いです。

私、AKIRAの転職歴は三度ほどと多くも少なくも無いいたって普通の凡人であります。40代という事で、お察しの方も居るかと思いますが、いわゆる【氷河期世代】です。

最近また、【氷河期世代】が話題になる事がしばしばあるようですが、なにそれという方は少し調べてもらうとその悲惨な世代の事を知ることができるかと思いますが、それは人それぞれなのかなと思います。

たしかに、世代によって有利・不利があるのかもしれませんが、それを言うと戦中・戦後の大変な時代の人も居るわけで、その時代をどう生きていくかと言う事なのかなと思います。

生きて行くにはお金が必要なので、どんな仕事に着くかは死活問題と言えると思いますので、そういう意味では【氷河期世代】は大変な状態ではあったと思います。

かくゆう私も最初は派遣社員としてプログラマーになる事から社会人をスタートしていますし、そこに行き着くにも紆余曲折あったわけでございます。ではまず、最初のエピソードとしてはニートが派遣社員になるまでのお話です。

【模索する日々】

私がいわゆる学生ではなくなってから、就職までに一年の空白期間があり、その間なにをしていたかと言うと図書館に通う日々でした。

なぜそんな状況になったのかというと何も考えずに語学留学に行って帰ってきたら就職が難しいという状態でした。(語学留学の話はまた別の機会に)

ホームページ作成のバイトという名目の家事手伝いをしながら、ネタ探しに図書館に行き気になった本を読み漁る日々を過ごしていたのです。

ジャンルは問わず、学生時代から興味のあったデザインや美術の本や、ホームページ作成の本、フォトショップやイラストレーターの本など探しては読んでいたように思います。

当時は良く分かっていなかったが、目指す仕事の方向性はWebデザイナーの方向に向きつつあり、個人的に知り合いのサイトを作ったりしていました。

ただ、HTMLやCSSの知識だけではできる事に限りがあり、簡単な動きのあるオーダーフオームや掲示板などをサイトに組み込むこともできず、JavaScriptやPerlによるCGIの勉強を始めていたのです。当時、最安だったロリポップのサーバーを借りて簡単な掲示板などを設置したりしていました。

しかし当時の地方には、Webデザイナーの仕事はあまりなく、これで食べて行けるのかも何をすればよいのかもわかりませんでした。当時は今ほどインターネット上に情報も多くなく就職は簡単ではなかったように思う。今は、多くの情報を探す事ができ本当に良い時代になったなと思います。

数カ月、今後どうしていくかを考えた結果、とりあえずハローワークに行こうと考え、ハローワークで仕事を探したのが最初の就職活動でした。今考えると、ワーキングプアまっしぐらのルートといえなくも無いが、とにかくどこかに就職しなければ始まらないという状況だったのです。

模索する日々、図書館に通いながら今後何を仕事にしていけばいいのだろうかと思い、興味があるものを一通り読みました。主にデザインや美術関係を読み、解った事はその道は美大などに通い、都会に出なければ成就しないという現実でした。(才能のある天才は別なのでしょうが)美術だけでなく、何かの専門職になりたければ最短ルートは大学もしくは専門学校などで資格を取って、新卒でその業態の大手~中堅の会社に入社するというのが定石だろうと思いますが、私は早々に正規ルートを外れてしまいました。(このあとそれが功を奏する事は知りませんでしたが、やり直せるなら大学進学からやり直しますね。)

【1999年 分水嶺】


当時は、多くの若者がIT系派遣会社に入って行きました。1999年、ノストラダムスの大予言は人類を絶滅させる事はなかったかに見えましたが、派遣法改正という形で当時の若者を破滅に導いたのかもしれません。そして私もIT系派遣会社の面接を受ける事にした時期でもあります。

今でも覚えていますが、IT系派遣会社の面接はざっくりしたもので履歴書と簡単な面接だけでした。当時の所長の「若者には【チャンス】が必要だから」という言葉が印象的で覚えていますが、表向きのその言葉の裏側には売り物になる商品かどうか試してみないと解らないといった会社側での意味での【チャンス】だったのかもしれません。

IT系派遣業とはそういうビジネスでしたし、需要と供給がマッチした結果でした。ある意味、会社からすれば飛んで火にいる夏の虫だったのかもしれませんが、社会人経験の無い私はとにかく経験が詰めれば良いという安直な考え方でしたので、両者の利害が一致した結果、就職できたのでした。

当時はよほどの事が無い限り、IT系派遣会社を落ちる事はない状況だったと思います。ブラック企業という言葉も2001年に【2ちゃんねる】から発生したといわれており、特に教育もせずに、雇った若者を大規模開発プロジェクトの孫請け現場に放り込んで、長時間労働も当たり前という時代でした。

私の就職した会社は、いまの基準で言えばブラック企業でした。ですが、派遣先で得難い経験も積むことができましたし、ブラック企業が悪と一括りにしてしまうのは一概には言えない場合もあります。この時代を振り返れば、【就職氷河期】は、仮にそれなりの大学を出たとしてもIT系派遣で働くしかないほどの状況だったかもしれませんので、語学留学で最終学歴が高卒の私にとっては良い【チャンス】だったのですが、ここからが転職人生の始まりでした。

【IT土方かSEか】

IT系派遣業で揶揄されたのが、【IT土方】という言葉でした。ご存じかもしれませんが、ITといいつつも単純労働の作業者のように、黙々と与えられた作業を長時間やるだけの現場というものがあります。今でもあるかもしれませんが、大量のドキュメントワーク(設計書類を決められたルールで書く、フォーマットを整える、印刷する、Etc)、終わらないテスト(ブラックボックステスト、ホワイトボックステスト、エビデンス作成、Etc)、旧システムの焼き直し(プログラムソースのコンバート、フォーマットを整える、Etc)※モダンな開発行為は無い時代でした。

派遣先の1社目は、いわゆる【デスマーチ】のプロジェクトでした。Cobolという昔の言語で作られたシステムをHP(ヒューレットパッカード)のフレームワークでPerlという言語でコンバートするという大規模プロジェクトで、テスターとして多少簡単なプログラムを書きつつ、人のソースをテストドキュメントを作り、テストしバグを発見し可能なものは修正し、という作業を朝から夜遅くまでずっとやる仕事でした。PerlはCGIを作るのに触った事があったので未経験でしたがメンバーとして採用されましたが、完全にIT土方的な仕事でした。

一方でSEというのは、上流工程である設計や管理も含めて行う当時のイメージでしたので、私の中ではIT土方の仕事からSEの仕事にどのようにジョブチェンジしていくかが重要だとどこかで考えていました。ただし、派遣社員が上流工程をやるケースはかなりのベテランになってからの印象でしたので、若手に任せられる事は無かったです。

ただし例外的に、若手に任せられるケースとして先進的なホワイト企業には、育成目的で若手に任せるケースが当時からもありました。私は派遣先の2社目で運よくホワイト企業に採用されたのですが、そのきっかけが【英語】が出来た事です。その職場には外国籍(カナダ人、フィリピン人、インド人、中国人など)のエンジニアが多数在籍しており、英語がしゃべれる事がアドバンテージになったのです。

私の英語レベルはTOEICで600点程度と中途半端なレベルでしたが、企業で必要とされるレベルは600以上が多いようでしたので【芸は身を助ける】と言いますが、唯一のスキルといっても過言では無い英語力が役に立ちました。何事も無駄なことは無いってことですかね。(英語に関してもそのうちまた別の機会に)

このホワイト企業での仕事をしたことで、かなりのスキルアップを果たしました。多国籍なチームでOSS(オープンソースソフトウェア)の調査や実用性の検証を行うプロジェクトをやっていましたので、プログラム言語としてC++とJavaを習得し、Linuxも使えるようになり、このときのリーダーが先進的な方で、XP(エクストリームプログラミング)やスクラムといった今でも通用するアジャイル開発の基礎や、課題管理システムによるチケット管理というモダンな開発を経験できたことで、SEとしての下地を構築することができました。

このとき私の年収は300万あったかどうか、たぶんなかったと思います。最初は実家に住んでいましたが、一人暮らしを始めたものの実家の援助なしでは生活はできませんでしたね。ですが、あまり散財する性格ではなかったので一応こつこつと貯金をしてはいました。そして結婚をした事もあり、将来の事も考え、最初の転職を考え始めたのもこの頃からです。

【転職1回目までの状況】

転職の話をするはずが、最初の就職の話になってしまいましたが、私の当時の状況や背景を話しておかないと、参考にもならないかなと思いましたので、少し長いプロローグになってしまいました。では、転職前のスペックをだいたいの感じで記載しておきます。

  • 年齢:25歳

  • 年収:300万

  • 家族構成:二人

  • 居住エリア:地方の田舎

  • 資格:英語(TOEIC600点)

  • 経験:PG(プログラマ)5年

    • 言語:Perl1年、C++2年、Java2年、HTML/CSS5年

    • OS:Windows2000/XP、RHL/CentOS

    • IDE:VisualStudio、Eclipse

    • その他:Photoshop、illustrator

  • 特殊:オブジェクト指向2年、XP/スクラム2年、CMMI2年

5年間で得た経験は、一番下っ端のPG(プログラマ)としての下積みでしたが、今思えば2社目の派遣先での経験や知識が今後に大きく影響していたと考えています。このときのプログラマとしてのレベルはまだ理解度に多少の不安がある状態でしたが、自学・自習に必要なレベルには達していたと思います。

そして、1回目の転職は人生を左右する大きな決断だったのですが、かなり雑な転職をしてしまうのです。

今回はここまで、また次回。

【次回予告】

転職先を探すのですが、ダメもとで2社目の派遣先であるホワイト企業に相談してみるが・・・。


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