雑感74:寛容論
カトリックとプロテスタントの対立がつづくなか、実子殺しの容疑で父親が逮捕・処刑された「カラス事件」。狂信と差別意識の絡んだこの冤罪事件にたいし、ヴォルテールは被告の名誉回復のために奔走する。理性への信頼から寛容であることの意義、美徳を説いた最も現代的な歴史的名著。
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ヴォルテールの著書を初めて読みました。冒頭に「カラス事件」のあらましが述べられますが、以降は一貫してさまざまな事例を引っ張ってきながら、寛容であることの大切さをヴォルテールが説き続けます。
他国では様々な宗派が共存しているが、フランスのようなキリスト教同士の殺し合いは起きていないと。
神の考えを勝手に都合よく代弁して、敵対宗派を攻撃するようなことはおかしいのではないかと。そんなことを神は望んでいるのかと。
我々は宇宙における非常にちっぽけな存在(ただの原子)であり、そんな存在が神の考えを先回りするのは越権行為ではないかと。
そもそも様々な考えを持つ者がいるのも、宗派が異なるのも、神がそのようにしたからではないかと・・・。
いわゆる「啓蒙思想」の作品ですが、「啓蒙」という表現がまさに適切というか、ヴォルテールが「神」や「自然」はこう考えているだろう、と述べるような部分もあり、俗っぽく言ってしまえば「上から目線」なのだが、狂信的な民衆の目を覚ますために、一歩二歩引いて現状を俯瞰し、「お前ら一旦落ち着け!」と言いたかったのだろうと強く感じます。
神や自然は置いておいて、この一歩俯瞰する感じは現代思想に通じるものもあるのだろうか。
さて、「狂信」と対比する形で「理性」の大切さが説かれていますが、この『寛容論』が書かれたのは1763年。その後、1900年代にファシズムが台頭したし、2000年過ぎた今でもテロは起きるし、ポピュリズムも流行っているし、ルソーが言っていたような「所有」の概念が生じた時点で、人間のこの小競り合いは不可逆的というか、もう「ご破算に願いましては」とまっさらな状態に戻すことはできないのか!?と感じたりもする。
理性とは。
ところで『人間不平等起源論』は1755年とほぼ同時期なんですね。世界史がヨコで繋がった感じがして、一人で勝手に納得しています。
光文社古典新訳文庫ということで、解説も充実しており、訳も非常に読みやすく、オススメです。