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雑感57:詭弁論理学

知的な観察によって、人を悩ます強弁・詭弁の正体を見やぶろう。
言い負かし術には強くならなくとも、そこから議論を楽しむ「ゆとり」が生まれる。ルイス・キャロルのパズルや死刑囚のパラドックスなど、論理パズルの名品を題材に、論理のあそびをじっくり味わおう。それは、詭弁術に立ち向かうための頭の訓練にもなる。
ギリシャの哲人からおなじみ寅さんまでが登場する、愉快な論理学の本。「鏡と左右」問題つき

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前半は世に蔓延る強弁・詭弁とはなんぞや?という話。
後半は論理のパズルになっていて、具体例を用いながらパラドックスを説明していく。

学生時代に読んだ記憶があったのだけど、何も覚えていなくて再読。そして「あぁ、イメージと違ったなあ・・・」という感想。当時も同じ印象をもったのだろうか。最後まで読んだのだろうか、当時の私は。

何がイメージと違うかというと、もう少し大学の講義のように詭弁を学術的に講じるのかと思ったのですが、本書はかなり身近な具体例を挙げながら、これは強弁だよね、これは詭弁だよね、と説明している感じ。

つまるところ、先ほど書いたことを書き換えると、本書は前半は「詭弁・強弁とは何か?」で、後半はあくまで「論理学入門」となっており、これをまとめてくっつけて「詭弁論理学」と題しているところに少し違和感があるのかもしれない。論理学と詭弁・強弁は非常に距離が近いことはよく分かったけれど。「詭弁学」というタイトルだったら少し印象は変わったかもしれない。これも詭弁か。

さて、1976年に出版された本ですので、ぼちぼち半世紀経つわけですが、そこまで読みにくくもなく、さらっと読めます、前半は。後半の論理学の部分は私の頭では何度も読み直さないと何を言っているのか分からなかったのですが、頭の体操になります。

さて、読後感は特に何もなかったのですが、捻り出すと、詭弁・強弁は日常に溢れているなあ、と思う。

例えば、安易な二分法。
今すぐやるのか/やらないのか、を決めなければならない。別にその二つしか選択肢はないわけではなく、「今すぐ」である必要もなくても、そのような選択を押し込まれることはある。強弁の世界。

あと定義のすり替え。本書で出てきた例えで言えば・・・、

小百合は女である。
太郎の生きがいは小百合である。
故に、太郎の生きがいは女である。

これは行き過ぎた例だと思うけど、こういった定義のすり替えはよく起きているような。・・・例えば「○○さんが言うには、こう言っているので・・・」などと、専門家や信頼のある人物の名前を出して、説得を試みる場面があるが、果たして○○さんの過去の発言時と今回のそれとは条件や定義は同一なのか、都合の良いところだけ引っ張ってきていないか。
詭弁・強弁ではないが、マスコミの切り抜きにも通じるものがありますね。

思い出すと色々出てくるのだが、強弁の例で書かれていた「魔女狩り」のプログラムのえげつなさも印象に残る。

「お前は魔女か」と問う → NO → もっと強く殴ってから「お前は魔女か」と問う → NO → (何回も繰り返す) → 拷問に耐えられるのは普通ではない → 魔女である

・・・これは凄まじい強弁である。

最後に、後半の論理学入門的な部分で出てきた話を一つ。

条件1:教師は期末までに一度試験をしなくてはならない。
条件2:教師は事前にいつ実施するか予告してはいけない。また実施すると分かってしまっている日にも実施してはいけない。

学生:最終日は試験はない。なぜなら前日の時点で残り1日しかなく試験の実施が決定してしまうので条件2に反する。同様の理由で最終日の前日もありえない。これを繰り返すことで(どんどん遡っていくことで)、試験は実施されない!!!

条件1と条件2は論理的に矛盾しているのだけど、生徒にとっては全ての日が「実施しないと分かっている日=論理的に推測できる日」なので、逆に教師からすると条件2に反しないので「いつでも試験は実施できる」とも・・・。

面白いですね。
パラドックス・・・、非常に広がりのある世界なのだろうが、私の頭では処理に時間がかかるので、これ以上は深追いしないことにします。終わります。

そこまで面白いとは思わなかったのだけど、書き出したら色々書いてしまった。





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