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自己紹介します

幼少期のこと


我が家を訪問した母方の祖母と一緒に撮影

生まれた年は1963年冬のこと。この冬は世界的に大きな寒波に見舞われた年である。日本は大雪で鉄道などが混乱した年でもあったそうだ。ドイツでは滅多に凍らないボーデン湖が凍てつき、湖を歩いて隣国スイスに渡れたらしい。
記憶にはないが、私の出生地は東京の新宿区とある。生まれた病院が新宿区にあったからなのかも知れないが、その後は赤坂の現カンボジア大使館のあった場所にも住まいがあったらしい。とにかく庭が広かったそうだ(大使館だもの。当然でしょうけど)
私の両親は特に裕福というわけではなく、画壇の一つ、二科会で審査員をしていた京都出身の洋画家の父と高崎出身の母が恋愛結婚して、父のパトロンが持っていた家を借りていたらしい。

私の記憶にある最初の居場所は、東京・港区赤坂1丁目(通称谷町)、今はアークヒルズのサントリーホールになっている場所の一軒家であった。上の画像は丘陵地の一番高いところで、私の住まいのあった場所は中腹あたり。谷町と呼ばれていた商店街や住宅が並んいたのは最も低い場所であった。アークヒルズで言えば、一番低いレベルにANAホテルなどのエントランスがあり、その上にある広場にサントリーホールの入口、更にその奥は丘陵地の高い場所に当たる場所に繋がり、アメリカ大使館やホテルオークラに繋がっている。当時は谷町商店街から石段を登って中腹の踊り場から門を入ると2軒ほどの家が建っていて、そのうちの奥にあった一軒が私の住んでいた家であった。自宅は2階建てで当時の間取りなどの記憶は薄くなっているが、トイレも洋式便座であったことが記憶に残っているのでモダンな家の部類なのかも知れない。広さは十分にあり、クリスマスには母の仕事仲間を呼んでパーティを開いていた記憶がある。
この家のある踊り場からそのまま更に石段を登った頂上に(大蔵省管轄?の)霊南荘があった。道路はそこから伸びていてアメリカ大使館に突き当たり、角を曲がるとその先にあるのがホテルオークラである。霊南荘は宿泊会議施設で、今思えばモダンな建築であったが、どういう訳かネットには出てこない。画像の奥に見えるその隣は辰野金吾設計による、かつて山口百恵と三浦友和が結婚式を挙げ有名になった由緒ある霊南坂教会。そして大蔵省?の官舎(公団の団地と同じ作りの集合住宅)があり、この辺りが幼少時の私の遊び場(テリトリー)で団地に住む同世代の子供達が一緒に遊ぶ私の友達だった。ここは丘陵地の頂上で下の商店街への道は階段のみであったため、ほとんど自動車が通ることがなく、広場もあって私たち子供には格好の遊びのスペースであった。

鉄道好きになったこと

正月やお盆などは父は家で留守番、私は母の実家のある高崎に帰省することがいつものパターンであったように思う。両親が他界していた父の実家は既になく、私の母方の祖母は高崎で洋裁学校を営んでいて伯母と切り盛りしていた。当時、大学へ進学する女性は少なく洋裁を習うために祖母の学校に通う若い娘が沢山いたことを覚えている。
私は母と高崎線の急行で上野駅から行くことが多く、私にとっての電車は高崎線の165系電車が一番馴染みがある電車だった。高崎駅には当時まだ高崎第1機関区という蒸気機関車の機関庫があり、高崎駅でホームに佇むD51だったか、動輪がホームより高い場所に蒸気とともにある姿を子供の目線で見て以来、その虜になってしまったようである。
祖父と列車を観に近くの踏切まで散歩すると、いつまでも帰りたくないと駄々をこねて祖父を困らせていたと後に聞いたことがある。それほど幼心に鉄道のダイナミズムに私はやられてしまったのが高崎であった。

谷町の自宅

自宅のあった場所、そして頂上部にあった霊南荘には斜面が鬱蒼とした暗いジャングルのような木々の生い茂る場所でもあったことから、その場所ではほとんど遊んだ記憶はない。霊南荘の住込みの管理員であったご夫婦は、愛犬「ジブ」と我が家のダックス「茶々」が仲良くしていた縁もあって、彼を「おぢちゃん」と呼ぶ私を孫のようにとても可愛がってくれた方である。その「おぢちゃん」はかつて首相経験もある高名な政治家の秘書をしていた方で、自動車免許を日本で数人目に取得したほどの、とても礼儀正しい紳士であった。私の結婚式にも駆けつけてきてくれたほど私を愛してくれたお一人である。その霊南荘は、年に数回ほど会議か何かで利用され、黒塗りの車で建物前が一杯になるが、それ以外は管理員と数名のスタッフ以外は誰もいない...今思うと、東京の1等地にある効率の悪い施設の1つだったように感じるが、私にとっては良い遊び相手と広い敷地は楽しかった思い出ばかりである。

自宅庭の奥に入り込むとコンクリートで覆われた崖の斜面に出ると記憶しているがこれも定かではない。この崖になっている斜面が厄介で、ある時崖下の家の住人から斜面が膨らんできているとの連絡があり、大家でもあった父の絵のパトロンは、修復工事の見積もり額に驚いてその家をすぐに売却してしまったのである。その売り先は直接聞いたわけではないのでここでは記さないが、これが発端となってこの場所全体がアークヒルズになったということらしい。私たち家族3人は急いで新居を探し、近くにできたマンションに急遽引っ越すことになったのである。

愛車メッサーシュミット

自家用車は西ドイツ製のキャビンスクーター、メッサーシュミットKR200カブリオであった。どのように入手したのかは、今となっては不明であるが、父の友人で車好きのグラフィックデザイナーが欲しいクルマの1台で、既にハインケル・トロージャン、シトロエン・2CVなど数台を保有していることから、父にこのクルマを勧めたとか。メッサーは、輸入代理店があったものの、当時でも日本にはあまり走っているクルマではなく、メンテナンスが出来る工場は世田谷に1軒のみと聞いていた。頻繁に故障を起こし、工場にいた期間の方が長かったのかも知れないが、このクルマはその佇まいやフォルム、ドアの開閉に至るまでいわゆる普通のクルマとは全く違うので、このクルマで走ると注目の的であった。イタズラも多く、少しの時間停めておいても戻った時はまずバックミラーの調節をすることから始めるような感じ。
子供心に抱いたこのクルマに対する気持ちは、正直複雑だった。とにかく特徴的なスタイリングで珍しいから注目を浴びるし、見つけるのが早い。誰でも乗り込みやすい開口部の広さ(何しろ天井ごと開くので開放感抜群のクルマ)。悪いところは2サイクルエンジン故のけたたましいエンジン音と煙。つり上がったテールランプのデザインは、子供時代の私の目線の前にあったことから怖い印象もあった。

ドアを大きく開いたメッサーシュミットの横で待つ私。車内のシートは蛇革が奢られているDeLux仕様

この場所から近所の保育園には徒歩で通い、幼稚園にはわざわざ中目黒の私立幼稚園に地下鉄日比谷線で通った。両親がなぜわざわざ遠くの私立幼稚園に通わせた真意は分からない。なんでも受験もあったらしいが、それは子供と親の両方が受験の対象だったようである。
この幼稚園はキリスト教(カソリック)系で保母さんは修道女のような格好をしていた。ただ、子供達には窮屈な細かな縛りはなかったように思う。ドイツで子供を授かり、近所のカソリック系幼稚園にも通わせたが、そこの保母さんは普段着で特にカソリック教会の厳しい戒律とは無縁であるどころか、志向の異なる子供達の行動に合わせた保育を行う運営なので、幼稚園では教会系でもそうした不自由さはないのでしょう。
ただ、両親が共働きであったことから、幼稚園の送り迎えはお手伝いさん(当時はそういう家庭も多かった)の役目で、彼女には今でこそ感謝する部分も多いが、色々と厳しい躾もあった。
毎日自宅から日比谷線の神谷町駅まで歩き、そこから電車で中目黒駅まで電車。そして中目黒駅から徒歩で幼稚園へと行く。結構な通園距離だ。日比谷線は既に東急東横線と東武伊勢崎線と直通運転していて、オールステンレス無塗装の日比谷線電車と東急電車。一方濃いベージュ地にオレンジの窓帯の東武電車のどれかに乗車するのだが、どの電車がお気に入りというのではなく、暗い色合いの東武電車が苦手だった記憶がある。当時は駅ホームの照度も暗く、そこに暗い色合いの電車がやってくるので気分が良くなかったのかも知れない。中目黒駅到着前のトンネルを抜ける直前に急カーブで車輪がキイキイ鳴らしながら走るのも記憶に残っていて、後にあの悲惨な事故があの場所で起きたことを知った時、驚いたけれどもすぐにあの場所で聞いていた車輪の軋む音が記憶から蘇ってきた。


初めてのメルクリンモデル

メルクリンとの出会い

私が洋画家であった父に連れられて良く行ったのが渋谷駅界隈。自宅近くから渋谷駅まで都電が走っていた頃は記憶の片隅にしかないが、都電が廃止され、その路線はバスに変わった頃からの記憶はある。渋谷駅の都営バスターミナルは東急文化会館と東急東横線ホームに挟まれ地下鉄銀座線が走る橋の下にある。そこでバスを降り、銀座線のガードをくぐってすぐに画材屋のビルがあり、そこに時々連れて行かれた。油絵を描いていたのであの独特の油彩画材の匂いは今も私の脳裏にある。そして東急のれん街の入口のある東急東横店ビルのガード下には戦争傷病者の2人が白い服を着てハーモニカとアコーディオンを奏でている姿も覚えている。子供心には何が目的でこのようなことをしているのか理解できなかったが、今なお謎である。

渋谷に来ると、良く連れて行ってくれたのが東急東横店の玩具売場。ここには日本国内や世界から輸入されたレゴも含めて様々な玩具が置かれていた。特に鉄道模型コーナーは人気で、休日などは子供達がショーケースの前を陣取っていてショーケースの中の鉄道模型を眺めている。時々お客がやってきて購入前に試走をするのだが、その時は大変な様相になる。ショーケースから鉄道模型が出てきて目の前を左右に少しだけ走る。それを観れるのはお客が模型を買うときだけであるから私もそこに集う大勢のガキどもの1人と同じでショーケースの前で模型を観ることが至福の時間となっていた。既に0ゲージは市場になく、Nゲージは今のような主力模型スケールではなく、H0ゲージが主流で、デフォルメして安価に設定した入門モデルもあったが、私の興味は、ドイツのメルクリンモデルであった。日本型は確かに馴染みはあるものの、実車を知らない私は、メルクリンモデルの華やかで美しいフォルムとカラーに私は魅了されていたのだ。
プラレールは卒業し、どうしてもメルクリン鉄道模型が欲しくなっていた私は、いつものように目を皿のようにしてショーケースの中の模型を眺めながら、父に「いつになったら模型を買ってくれるのか?」..と聞いたことがある。すると父は私の隣で模型を買ってもらっている子供に、「君はいくつだい?」と聞くと「9歳」と答えた。父は、「じゃ、9歳になるまで我慢だな..」と...。確かに鉄道模型と年齢は微妙な関係があるのは子供でも理解できた。納得したくはなかったが自分には9歳まで待てば買ってもらえる..と信じるしかなかったのである。

そしてもう1軒、東急東横店から逆側にある京王のバスターミナルを挟んで向かい側にテナントビルの東急プラザの建物があり、そこの2階にドイツ製鉄道模型のメルクリン専門店があった。ここはメルクリンだけしか置いていないお店であったことから、デパートの玩具売場のようなガキどもがたむろすようなことはなく、大人っぽい雰囲気でショーケースが並ぶ店内にメルクリンモデルとファラーやフォルマーなどのストラクチャー類、そしてお店の角にはコインレイアウトがあり走る姿を眺めることができた。そして別店舗のように仕切られた隣にはシュタイフのぬいぐるみとレゴブロックのみの専門店があり、昨今デパートなどで見られる輸入玩具売場のような感じであった。このお店はメルクリンも含めた輸入玩具を一手に扱う輸入総代理店のアンテナショップ(直営店)で、ここで私はメルクリンと出会い、ドイツの鉄道を知り、私にとってはそこはドイツの小さな窓であった。なぜ父がここに私を連れてきたのかは知る由もないが、私が生まれる前にパリに絵の勉強をしに行ったことがあったことや良いものを見極める目は優れていたこともあって鉄道模型であるならメルクリンが良いと思ったのでしょう。という理由がある一方、私をメルクリンショップへ連れてくると、「しばらくここで待っているように」と言われ、父は姿を消した。実はここの近くには場外馬券売り場があったのを知るものは少ないかも知れないが、私をここに置いておけば暫くは退屈しないと思ったのであろう。つまり彼は馬券を買いに行くために私をここに連れてきたというわけ。父もさすがに子供を馬券売り場に連れてゆくことはできなかったのでしょう...。

小学校時代

幼稚園は電車で中目黒まで通園していたのが、小学校は公立に行くことになった。しかし、公立と言っても通学地域の港区立ではない千代田区の小学校で、しかもその校舎のあった場所は国会議事堂に最も近く自民党本部の真向かいである。このような場所に通うような生徒が通学地域に十分にいたかどうかは分からないが、私が通っていた時のクラスメイトの半分以上が私と同じ越境、つまり域外通学であり、少なからずの生徒は杉並区や世田谷区、渋谷区、足立区など、地下鉄などを使って遠くの自宅から通学していた。
中目黒の幼稚園時代の友達は半分近くが慶應大学附属の幼稚舎に進学。しかし幼稚園時代のママ友だった数人は示し合わせたのか、なぜか同じ千代田区立の公立小学校に通うことになった。当時、公立でも同じ千代田区立番町小学校や、この小学校から同区内の麹町中学校、都立日比谷高校、そして東京大学というコースはエリートの道であったとされていたので、そんな思惑が親にはあったのかもしれないが、当の本人は全く知る由もなく、そのようなレールに子供を載せようと試みても、芸術家の父と服飾デザイナーの母から生まれた私がこのようなコースに載るわけもないことが想像できなかったのだろうか..と今更ながらに思う。
入学した公立小学校へは、距離はあったものの徒歩で通学していた。六本木から溜池交差点、東京ヒルトンホテル(現東急キャピトルタワー)の横を通って暫く歩き、坂を登れば学校に着く。

1971年、母の所属する服飾デザイナーの協会主催でヨーロッパ旅行が企画された。パリコレの見学も含まれていたのであろう。母は私が生まれる前に商社の駐在員として西ドイツのハンブルグに居たこともあり、結婚後は父とヨーロッパ旅行しているので初めての海外ではない。私はもちろん留守番であるが、ドイツも旅行地の一つに入っているため、欲しかったメルクリンをねだりお土産として買ってきてもらう約束をした。
母がヨーロッパ旅行から帰国し、約束のお土産を貰った時の嬉しさは今も忘れられない。それは蒸気機関車1両と貨車3両、そしてオーバルのレールが入ったトランスなしのスタートセットである。今思うと、良くスタートセットのような大きな箱に入った模型を母は持ち帰ったものだと驚く。その後しばらくして渋谷のメルクリン専門店でトランスを買ってもらい、ようやく叶ったメルクリンモデルを家で走らせた時の嬉しさは、今なお記憶にあることから、それ以来私の中にあるメルクリンの思いは変わることがない。その時の私は9歳。偶然とは思うが、父との約束は母を通して守られたのである。

軽井沢と河口湖

小学生の頃の夏休みは、河口湖と軽井沢に出かけたことが記憶に残っている。軽井沢は母の幼馴染の友人数人がそれぞれ家族を持ち、今風に言えばママ友になったので、しばし家事(我が母は仕事)から離れ、主人抜きで楽しもうと言う趣旨だったに違いない。と言うことで、父親抜きの避暑である。旅行といっても毎年同じ中軽井沢の星野温泉ホテルで、ちょうど正面エントランスの2階の和室の大部屋を1部屋数日間3家族(6〜7名?)ぐらいで素泊まりで使っていた。今でこそ星野リゾートとして有名な宿泊施設の元祖がこのホテルで、広大な敷地にある低層のリゾートホテルという印象であるが、ここのレストランで食事をした記憶がなく、朝食は前日に街で調達したパンと野菜、果物を切って食べたり、昼食や夕食は街で外食していた記憶がある。優雅な旅行とは言えなかったが、当時としては珍しくホテルには専用のテニスコートや温水プールも備わっていて、現天皇陛下も軽井沢で避暑に来られた時はここのプールに来た時の写真が飾られていた格式のあるホテルではあったようである。部屋の場所が良いので、滞在最終日のチェックアウトの時来年の予約を取ると聞いた記憶がある。なるほど、これなら間違いなく予約できるに違いない。この経験のお陰で軽井沢(旧軽商店街)や中軽井沢の地理やお店など、大学生時代の夏休みにアルバイトした軽井沢では土地勘が役立つことになった。

また、河口湖には両親の友人が別荘を構え、ヨットやモーターボートを持っていて避暑も兼ねて数日間別荘の側にある民宿で過ごすことが毎年の恒例行事だった。と言うのも父はその友人の勧めで19Ftの小型ヨット(Cat-Jr.)をキットで購入。富ヶ谷のアトリエで数ヶ月かけて完成させた。小学校低学年だった私も少しだけ手伝わせてもらった記憶がある。アトリエからトラックで河口湖まで運び、内々ながら進水式のようなイベントも行った。それから数年間はゴールデンウィークに預けてある友人の別荘の倉庫から出し、夏休みにはこの船で遊び、また秋にはしまうと言う生活を何年か続けたが、数年後に盗難に遭ってしまった。被害届は出したと思うが見つからず、更に数年後、湖畔に乗り捨てられていたのが発見されたらしい。盗難に遭った時の父の落ち込み方は酷かったが、発見された時は使いものになる状態ではなかったようである。小さなキットとはいえ、自分で作り上げた船だったので落ち込む気持ちは理解できる。

寮生活

小学校への徒歩通学も2年生までで終わり、その後はクラスで私だけ学校に籍を残しながら鎌倉にある区立の臨海学園という寮生活の学校で生活することになる。ここは表向き身体の弱い、或いは喘息など持病を持っている子供が、都会ではなく空気の良い自然環境の豊かな場所で集団生活をするための小学校と寮を持つ千代田区の学校施設である。私は当時頻繁に発熱と扁桃腺を腫らす子供で、そうした問題を克服するとの名目で寮生活を始めさせられたが、実は私本人はそうした生活が始まることを知らされたのは直前で、当時自身が気にしていた吃音症状もここで治るのかと父に訊いた記憶がある。父は「そうだ」と言っていたが、そのようなプログラムがあるはずもなく、実は両親は仕事が忙しすぎて私を自宅で育てる余裕がなく、この施設に入園したのは後になって理解できたのだが、やはり10歳程度で2年間両親と離れた寮生活は、その後の成長に問題が残るようにも思う。実際一緒に入った幼稚園時代からの友人も数人いて、彼らも同様に身体が弱いわけでもなく平均以上に健康体の子供達である。つまり、私の両親と同様、別の事情があったわけである。だが当時、母は出来たばかりの西武百貨店の渋谷店でオートクチュールの婦人服サロンに籍を置き、他のどのデザイナーよりも多くの注文を受け仕事をこなしていたそうであるから、その忙しさは頂点に達していたのであろう。こうした両親の状況を思えば、仕方のなかったことなのかも知れない。

寮生活は朝6時起床で検温、布団の片づけから始まり、乾布摩擦、海岸マラソンや散歩、そして朝食、授業開始...と今までの家庭生活とは全く異なる極めて規則正しい生活が待っていて、親と会えるのは月に一度、2ヶ月毎に面会日と帰家日が交互に設定されていて、面会日は親が鎌倉にやってきて1日子供と面会し自由に過ごせる。また帰家日は親が鎌倉まで迎えに来て数日自宅で過ごすことができる。そして子供達は親に連れられて東京駅に集合し、親と別れ横須賀線で鎌倉へ帰るのである。皆がそうであるように、私も特に帰家日は嬉しくて両親が迎えに来る日が待ち遠しかった。親と一緒に自宅に向かう横須賀線は必ずグリーン車だったし、帰宅時も平日は学校に登校するのが決まりだったが、内房線外房線の電化開業で東京地下駅発着の特急にどうしても乗りたかった私は、父にねだって学校をサボり、安房鴨川までピカピカの183系特急「わかしお」で出かけた。ここは昔父が海の風景画を描いた場所で、父と旅館に1泊したことを覚えている。東京駅の集合する時は父が丸の内南口近くの丸ビルだったかの1階にあった森永が経営していた喫茶室でジュースをご馳走してくれるなど、父も彼なりに私の親と暫く離れて暮らす寂しさを理解していたようにも思う。また面会日でも帰家日でもない平日に突然父がダンボール一杯のお菓子を携えて鎌倉にやってきた。戦中戦後の混乱期を乗り越えてきた父らしくハーシーの輸入チョコレートが入っていて、友達から喜ばれたことは今も鮮明に覚えている。

私が寮生活をしていた中、母は脳動脈瘤を患い、くも膜下出血で自宅で倒れた。たまたま父がいつもより早く帰宅したため、発見が早く一命を取りとめ、その後転院先の脳外科の良い医師と巡り合ったお陰で成功率の半々程度だった脳外科手術に成功し、リハビリもしたことで四肢不自由となったが、車椅子生活になることもなく無事に退院できた。

赤坂のマンション

母が入院中私は4年生が終了し、私の鎌倉での寮生活も終了。帰った自宅は以前の六本木のマンションではなく、新たに引っ越した赤坂のマンションで母が退院するまでここで父と2人暮らしであったのだが、その期間のことはほとんど覚えていない。覚えているのは帰宅した初日、部屋には引っ越しの段ボールが重ねてあって夕食を作れる状態ではなかったため、父と2人で商店街のある一ツ木通りまで行き蕎麦屋に入ったこと。
このマンションには、大学を卒業し就職後に一人暮らしを始めるまで10年以上暮らし、一番思い出のある住まいでもある。

母が退院したのはそれから半年ぐらい経ってからだろうか。倒れる前は颯爽と歩く職業夫人だった母は、家の中は問題ないが外出は1人では無理で必ず誰かが一緒に付き添わなければならない不自由な身体になっていた。
幸い手が問題なく機能したので、彼女の仕事である服飾デザインは自宅にオートクチュールサロンをしつらえてお客様を迎え、デザイン、仕入れた生地から裁断、仮縫いを自分でこなし、お針子さんが縫製を行う家内製手工業的な仕事がスタートした。父は渋谷区富ヶ谷にアトリエを借り、そこに通って絵を描いていた。
東京の自宅は変わったが、私は小学校が同じだったので自宅から学校までバス通学になった。当時の都営バスは美濃部カラーと呼ばれる白地にスカイブルーの塗装色で青山通りを停留所2つだけの区間である。行きは朝なのでダイヤはほぼ正確だったが、帰宅時は酷いものだった。時刻表より30分ぐらい遅れることもしばしばだった。停留所2つ分の距離なので30分あれば徒歩でも帰宅できたのだが、定期券を持つとバスに乗らなければと思ってしまい、待てど暮らせどやってこないバスにイライラしてしまっていることを覚えている。そんな小学校生活最後の2年間でした。

外国語

ある日のこと、父と渋谷からバスで自宅に向かい、最寄りのバス停で降り立った時のこと、西洋人らしき外国人男性が父に近づき何やら英語で質問したのである。すると父はその外国人に流暢な英語で返事をしたのである。私は父の話す英語を初めて聞いたので、彼が英語を話すことに驚くと同時に、彼の別の一面を目の当たりにして、すぐさま父に何を聞かれたのか尋ねたら、そこにある壁の向こうは公園なのかと聞かれたとのこと。確か父の口から「Prince Palast」という単語を聞いたことを覚えている。その場所は公園ではなく、当時の皇太子の住んでいた赤坂御所である。
私にとってこの時のインパクトは大きく、外国語を話せるようになりたいと思ったのはこの時の体験があったからだと思う。
この頃から親戚の大学生が私の家庭教師となり、先取りの形で英語の勉強も始まった。しかし...私には英語は興味の持てる語学ではなく、コミュニケーションどころか文法も良くわからないまま小学校を卒業することになったのである。その時は気づかなかったが、私が求める外国語は文法ではなくコミュニケーション能力だったのである。

つづく...

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