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『都知事の虚像~ドヤ顔自治体の孤独なボス』③「区」の存在なしに東京は語れない

 この連載を始めたきっかけは、「都知事」という公職がなぜ実際の役割以上に大きな意味を持っているのかを明らかにするためです。それは結果として、石原慎太郎や小池百合子といった稀代のポピュリストの出現する背景に迫ることができると思うのです。

 前回までの記事では、全国で唯一「都」を名乗れるのが東京都でありながらも、都道府県は全て同じ広域自治体で、自治体の性格に違いがあるわけではないことを論じてきました。同時に、東京23区の存する区域に関しては一つの大都市として扱われ、都がこの区域に必要な市町村事務の一部を担っていることを示し、それがあくまで限定的な役割に過ぎないこと、つまり「東京市」の代わりをしているわけではないことを指摘してきました。

 東京都という広域自治体の役割を考える上で、「特別区の存する区域」を統治する「区」の存在は避けては通れない論点です。都知事は「東京市長」を受け継ぐ存在とは言えませんが、現在の「特別区の存する区域」において本来なら23区が行うべき仕事を一部担っているからです。今回は、東京における「区」の歴史を振り返りながら、時には東京市や東京都という区部を包括する団体に飲み込まれながらも、戦後、特別区として自治権を拡充してきた特異な存在について考えてみたいと思います。

はじめに「区」ありき

 東京には「都」と「区」のどちらが先に誕生したのかご存知でしょうか。東京都は1943年に旧東京都制により東京市を廃止して、発足しています。一方、「特別区」の原型となった区は明治時代までさかのぼります。実は都よりも区の方がはるかに先輩なのです。

 東京の区の歴史は「府の区」「市の区」「都の区」の三つに分けて考えることができます。

◆府の区

 江戸を東京とする詔(みことのり)の出た1868年7月17日、東京府が設置されました。まもなく東京府庁が開かれ、江戸町奉行所の事務が引き継がれます。江戸の範囲は「朱引」と呼ばれる境界線で示されていました。1878年の郡区町村編制法の制定を経て、東京府には旧朱引内に新たに15区、旧朱引外に6郡が置かれました。「府の区」の誕生です。

 東京府15区は第一義的には国の行政区画でした。官吏であり地方官である府知事の指揮命令のもと、官吏である区長が国政事務を処理します。一方で、区は、区内の共同事務=自治事務を自ら処理する権能を持つ法人とされ、公選の区会の設置が認められました。

 区会とは、現代でいう区議会のことです。最初の選挙は1879年2月でした。当時の議員資格(被選挙権)は満20歳以上の男子で、その区内に本籍住居を定め、土地を有する者に限られていました。選挙資格(選挙権)は満20歳以上の男子で、その区内に土地を所有し、選挙区内に本籍住居を定める者及び満3年以上間断なく寄留する者に限るとされていました。

◆市の区

 1888年4月、市と町村を基礎とする体系的な自治制度を定めた「市町村制」という法律が公布され、大規模な町村合併を経た翌89年4月1日から順次施行されました。これに伴い、これまでの区は市に移行することになりました。しかし、東京、京都、大阪の3府については区をそのまま市にするのは実情に合わないことから、特例として区部を一つの市にしながらも、府知事が市長を兼ね、従来の自治区は存続することになりました。

 当時の東京市役所は、東京府庁舎内に設けられたため、門には両方の看板が掲げられ、建物内の階段の右へ行くと東京府、左へ行くと東京市の庁舎となっていたそうです。

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※『最新東京名所写真帖』(小島又市)より抜粋《国立国会図書館デジタルコレクション》

 この時期の東京市は、名ばかりの東京市でした。そこで、東京市は境遇が同じ京都市や大阪市とともに、特例の撤廃を求める運動を繰り広げ、1898年9月30日に特例は廃止に至りました。これにより、3市の自治が認められたのですが、あくまで暫定的な措置とされ、従来の法人区と公選の区会は3市にそのまま引き継がれたのです。

 東京市は1932年10月1日、当時の都市計画区域に含まれた隣接する5郡(82町村)全域を吸収合併して新たに20区を置き、従来の15区とあわせて35区からなる大東京市を形成しました。拡大した東京市の市域は、多摩地域を編入する前の東京府全体の92%を占め、市の行政と府の行政が併存する状態が生じました。

 これが二重行政と言われるゆえんとなりました。

◆都の区

 3市の特例が廃止されて以来、国では都制を含めた様々な大都市制度の案が繰り返し議論されましたが、いずれも否決もしくは未決に終わりました。東京に都制が成立し、「都の区」が始まったのは、太平洋戦争の戦況が悪化し、日本全土が本土決戦を視野に入れた臨戦態勢へと突入した時期でした。

 政府は、戦時施策をスムーズに遂行するため、「市制」「町村制」「府県制」の三つの法律の改正を行って、地方統制の強化を進め、その一環として1943年6月1日、新たに「東京都制」を制定しました(施行は7月1日)。これによって、東京市と東京府は廃止され、国の組織下にある東京都が新設されました。

 東京都は、戦時体制として官選の長官が統括する「帝都にして大東亜建設の本拠」として成立しました。

 現在の「都知事」に当たる東京都長官は、現在で言う大臣級の役職で、内閣総理大臣に直属し、全国を軍の管轄区域に対応する8区域に分けて設けられた関東信越地方行政協議会の会長を兼務して地方会議を主催するほか、毎月首相官邸で開催される会長会議のメンバーでした。

 「都の区」は、これまでの35区が従来の区域と名称を引き継ぎ、官選の区長を置く法人とし、公選の区会は必ず置くものとされました。「都の区」の権限は、都の統一を害しない限りで拡張され、「市の区」時代の事務に加えて、都条例で区に事務が移譲できるようになりました。さらに、課税権や起債権が認められるなど、制度的には一定の自治権が許容されていました。

 もっとも、せっかく自治を守った35区ですが、戦局の悪化で東京の区部は度重なる空襲を受け、焼け野原の中で敗戦を迎えます。壊滅的な被害により都心区の人口は激減し、戦後、日本国憲法の下で誕生する特別区は、まず区の整理統合が求められるのです。

 区は1889年5月1日に東京市の下部組織となり、さらに1943年7月1日の東京都制の施行以降は東京都の下部組織となりましたが、それでも区会は維持され、法人格を持った団体として存続しました。

 よくある誤解として、東京の特別区のルーツが東京市時代の「行政区」だという方がいますが、それは間違っています。東京において「区」はずっと法人格のある存在として認められ、「行政区」となったことは一度もありません。

 東京には、はじめに「区」があったのです。東京市や東京都は、区のある大都市地域に後から設置された上部団体で、住民に最も身近な存在ではなかったのです。

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※『東京大都市地域の物語 東京23区のなりたち』(特別区協議会編)から抜粋

◆参考文献

『東京大都市地域の物語 東京23区のなりたち』(特別区協議会)
https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/shodana/documents/tokyostory.pdf
『都史資料集成 第9巻 大東京市三十五区の成立』(東京都公文書館)

東京都が「基礎的自治体」だった時代

 連載の2回目でも解説しましたが、1964年東京オリンピックが開催された時期、東京都は「基礎的自治体」でした。当時の特別区(23区)は、公選の区議会は残っていたものの、都の内部団体に過ぎなかったのです。それはまさしく、東京都が「東京市」として「特別区の存する区域」に君臨していたと言えます。このときの都知事とは「東京市長」の亡霊を背負っていたといえるのです。

 「府の区」「市の区」「都の区」と歩んできた東京の区は戦後、地方自治法の下で「特別区」に移行しました。東京は空襲の被害で都心や下町を中心に人口が激減し、一部の区が合併して、35の区が22区に減りました。このうち板橋区から練馬区が独立し、現在の23区が成立します。

 当時、特別区は市と同格の基礎的な自治体と位置づけられました。戦前、都長官が選んだ官選区長による区政から、区民が選挙で選ぶ公選区長による区政へと変わりました。ところが、戦時中に都制が導入され、それまであった東京市の仕事が都に移り、都が市の仕事をしていたことから、戦後も特別区の仕事の扱いを都の条例に委ねてしまい、特別区は自主的に仕事を拡大する余地がなかったのです。

 そこで、初の区長選で当選した公選区長は、区議会と一緒に全区を挙げて自治権拡充運動を始めました。

 こうした動きを受けて、都と特別区の協議が始まりましたが、両者の溝は埋まるどころか、やがて紛争状態へと陥ってしまいます。都は戦前の都制時代(東京市を引き継いだ都)の権限や財源を手放したくない。区は名ばかりの基礎的自治体ではなく、〝実〟も獲りたい。お互いに譲り合う余地などなかったのです。

 当時GHQは、旧来の日本の体制を弱体化させるため民主化政策を国内で進めてきました。これが地方自治法の制定へとつながり、自治体の首長公選が実現しました。ところが、1949年の年頭の辞で最高司令官マッカーサーが民主化の終了を宣言。同年7月4日の米国独立記念日には、日本は共産主義進出阻止の防壁であるとの声明を発表しました。米国と日本を取り巻く国際情勢が大きく転換したのです。

 1952年3月20日、政府は、特別区の区長を任命制とする地方自治法の改正案を閣議決定します。これに対して、同年8月に文京区議会議員ほか2人から最高裁に違憲訴訟が提起されましたが、最高裁は「具体的な権利義務に関係のない抽象的な事項については審理せず」と訴えを却下。自治法改正後も、区民から違憲訴訟や区長選任無効の訴訟が起こされましたが、いずれも内容の審理に入らないまま棄却されました。

 区側の反対運動が盛り上がる中、1952年9月1日に改正地方自治法が施行されました。これにより都は特別区の存する区域を基礎として成立する「基礎的地方公共団体」となり、特別区は都の内部団体に格下げされました。区が処理する事務の範囲は限定されるとともに、区長公選制も廃止されました。

 都はこの後も名実ともに「東京市」としての権限を確かなものとするために、特別区を「行政区」化するよう画策します。

 しかし、この頃から日本は高度経済成長の道を歩み始め、東京23区域への人口・産業の集中が加速します。戦時中の空襲などにより23区域の人口は戦前のピークである680万人から終戦時には280万人へと激減しました。しかし、戦後の戦災復興により1955年には700万人まで急増しています。

 1964年、都が「基礎的自治体」として招致した東京オリンピックの開催は、東京をさらなる巨大都市へと発展させました。

 過度の人口・産業の集中は、都の行財政を圧迫し、次第に機能不全に陥らせました。23区域に住む区民が生活環境の悪化に苦しめられるだけでなく、ベッドタウンである多摩地域でも人口の急増や無秩序な都市化が進み、23区との格差(多摩格差)が問題となるのです。

 23区域における基礎的自治体である東京都は、「東京市」として23区民の生活や環境を守る責任がありますが、同時に広域自治体としての「東京都」として多摩・島しょ地域の市町村に対する支援も行わなければならないのです。多摩地域の自治体からは「都は府県行政に専念していない」と不満が噴出しました。

 東京のあちらこちらで経済成長の歪みが溜まっていき、その批判の矛先は東京都への向いたのです。

 こうした中、1964年の自治法改正により、都から区へ大幅な事務移管が行われることが決まりました。現在は特別区が担っている福祉事務所は、このときに都民生局から特別区に移管しています。まさに今、コロナ禍では感染防止の最前線に立っている保健所も、このときに施設管理が区に移り、自治法改正を経て、今では全区が保健所を持っています。

 1975年には特別区の区長公選制が復活し、区は都に留保されたものを除き、原則として一般の市の事務や保健所設置市の事務を処理することが決まりました。1998年の自治法改正ではようやく特別区が「基礎的な地方公共団体」と位置づけられました。現在、23区域のごみ収集は区が担っていますが、これも1998年自治法改正を受けて、2000年に都清掃局から移管した仕事です。

 こうして、都は23区域の〝現場〟を特別区に明け渡し、行政をスリム化させていきました。現在では特別区が中核市並みの事務権限を持つようになり、23区域で最も住民に身近な基礎的自治体としての地位を確固としたものとしています。

歴史や実態を踏まえないドヤ顔自治体

 戦後の歴史を踏まえれば、東京都が「東京市」の亡霊を引きずりながらドヤ顔で「首都」を標榜しているのは、むしろ滑稽と言えます。東京都は、高度経済成長期に人口と産業の集中で「東京市」としては機能不全に陥り、「内部団体」であった特別区に次々と事務を移譲してきました。にもかかわらず、今も都知事はドヤ顔で「首都のリーダー」のような振る舞いを続けているのは不思議ではないでしょうか。

 それでも現在の東京都は、広域自治体として府県行政に専念することができず、相変わらず23区域の主役のような顔をしています。そういう東京都のことを、この連載では「ドヤ顔自治体」と呼ぶことにします。

 このような歴史や実態をわきまえないドヤ顔自治体だからこそ、稀代のポピュリストたちがその虚像を利用しようと現れ、大衆を欺き、「東京から日本を変える」などという空虚なパフォーマンスを繰り広げたり、国との役割分担や都の権限を無視した〝なんちゃって外交〟〝なんちゃって領土紛争〟を行って、都政に混乱をもたらしてきたのです。

 大阪市で2020年11月、特別区を設置する住民投票が行われました。住民投票の結果は反対多数でしたが、大阪都構想が仮に実現していたとしたら、現在の大阪府が「大阪市」を飲み込み、府知事が市長の顔をして旧大阪市域に君臨したことでしょう。それこそ虚像以外の何ものでもありません。残念ながら都構想の推進派すらもそういう危険性に気づいていないどころか、反対派ですら理解しているかどうか甚だ疑問に感じています。そのことはまた別の機会に論じようと思います。

 次回は歴代の東京都知事を振り返りながら、都知事という存在が日本の政治に影響を与えてきた意味を考えてみたいと思います。

◆参考文献

『東京大都市地域の物語2 東京23区 自治へのたたかい』(特別区協議会) https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/shodana/documents/tokyostory02.pdf

『東京大都市地域の物語3 東京23区 再生のいしずえ』(特別区協議会) https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/shodana/documents/monogatari3.pdf

『東京大都市地域の物語4 東京23区 運動のひろがり』(特別区協議会) https://www.tokyo-23city.or.jp/chosa/tokei/shodana/documents/monogatari4_1.pdf

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