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ケニアでの幼少期の記憶

ゴードン・ムアンギさん(四国学院大学教授)のケニアでの幼少期の体験について、放送大学大学院のラジオ講義「アフリカ世界の歴史と文化」の第13回「アフリカの独立とヨーロッパの対応(1)-第二次世界大戦~70年代-」で聴き、強く印象に残ったので、以下に記しておきます。

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生まれは1946年10月ですから、記憶としてはたぶん3歳くらいのことかと思います。お父さんと一緒にバスに乗って地方の病院に行くときに、音楽がかけられていて、それを聴いていたのを覚えています。いま危機の状態であるという歌で、後になって調べてから意味がよくわかりました。こういう短い歌です。

ニョンゴイレーゴッコオー
ショローワイッテカ

ヴィモーライグイレーン
デディーバローリー
ギュンマーンバンマー
ウィキアンボンボンム

これは日本語で「壺が割れてお粥が漏れてしまった」という意味です。これを歌っている人が言うには、爆弾を投げにビルマへ行った、要するにビルマ戦争からの帰りに、ちょうどケニアに着いたとき、リヴァロールという所で聞いたことわざだと。だから、お粥の壺が割れてしまったということは、いまは危機な状態、大変なことなんですよ、というのを表しています。だからおそらく1948年くらいかと思います。初めての記憶として印象的に覚えています。

1953年にスコットランド教会の小学校に入りました。日本でいう江戸時代の寺子屋のようなものでしょうか。

翌年の1954年だと思いますが、学校から兄と一緒に家に帰ったとき、白人の兵士がカンバ民族の人(スワヒリ語からキクユ語に通訳するため)と一緒にいました。私たちの家は、一番しっかりしているような、当時スワヒリ系の丸い建物ではなくて、ちゃんとしたトタン小屋で、芝生もありました。そこに入ってきたのはすごく乱暴な白人でした。

カンバ人は水を頂戴と言い、彼にちゃんと水を渡したら、白人が農民を蹴飛ばしたんです。白人は文明人そのものだと思っていたので、そういうことになるとはすごくショックでした。そのときは二人とも銃を持っていたので、すごく恐怖感を覚えました。

その後私に聞いてきたのは「お父さんはホーム・ガードですか」と。「ドグォ ニョア ホームガード」とカンバ人がキクユ語で言っているから、私は何のことかわからなくて。

そのとき隣に同じ小学校の上級生の女の子が走っていて、「そうですよ、この人の家はホーム・ガードですよ」と言いました。

もしそうしなかったら、マウマウの者であるということだったら、手に持っていた灯油でトタンの家が燃やされてしまうんですよ。それで私は助かったんですよ。このことはやっぱり、あの時代で一番覚えています。

マウマウ戦争は1952年10月20日から始まっているのですけれども、ホーム・ガードは要するに白人側、キクユ人からみたら裏切り者です。イギリス人のためにゲリラを殺すにあたって、白人は一番後ろで、一番前は対キクユ人のホーム・ガードです。ホーム・ガードはアイルランドの歴史の中にも出てくるのですが、民族なのだけれども反対側の人たちです。だから、お父さんはホーム・ガードだと言ったから良かったんです。でも実際はホーム・ガードではなかったんですよ。弟はゲリラなんですよね。結局その事件を後で聞いたら、本当に殺されそうだったんです、このマウマウ側としてね。誰かが助けてくれたのですが、なんで助かったのか、他のみんなは絶対燃やされているのに、あなたなんかやっぱりどこか怪しいのに(笑)、と言われます。弟はそのグループにいるのです。

マウマウ側にやられるか、ホーム・ガードの側にやられるか、あの時期はほとんどのキクユ人、特に頑張ろう思っている人たちは、非常に挟まれていたのです。

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ケニアはアフリカ大陸の東海岸に位置する共和制国家です。かつてはイギリスの植民地でしたが、1963年12月12日にイギリスからの独立を勝ち取りました。キクユ族、ルヒヤ族、カレンジン族、ルオ族、カンバ族など、42の民族が存在していると言われています。

語り手のゴードン・サイラス・ムアンギさんは、キクユ語を母語とするケニア人です。ナイロビ大学を卒業後、京都大学へ国費留学をしに来日し、以降はずっと日本で暮らしているそうです。

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第二次世界大戦はアフリカの人たちにとって非常に大きなインパクトがありました。彼らは戦争に参加する中でアフリカの様々な地域の植民地の経験を聞き、交流を深めることで、共通認識を持つことになります。あるいは軍隊の兵士としてアジアへ戦闘に行く中で、色々な新しい経験を得ました。そして大きな世界の転換、世界的な危機が起きていることを認識して、帰国したのです。

戦後、アフリカの各植民地では独立に向かっての動きが出てきました。ケニアでもマウマウ戦争という形で独立の戦いに進んでいくのですが、その過程でキクユ人の社会が大きく揺れ動きました。イギリス側の軍隊の手先となるのか、マウマウ側の兵士として戦うのか、同じ家族、同じ兄弟同士が違った立場で相対峙しなければならなかったのです。

ただし、独立の動きは教育を受けたエリートだけではなくて、農民などの一般の人たちも一定の役割を果たしてきたことも、知る必要があります。

第一次世界大戦では、アフリカ人たちは主としてアフリカ大陸の中で互いに戦いました。第二次世界大戦では、アジアの中で自らと同じ有色人種であるアジア人と銃口を交えることになります。例えばビルマ戦線では、日本人の兵士とも戦いました。そういった中で、自分たちの戦いの意味を考えざるを得ないということが、彼らの独立のきっかけになったのかもしれません。

また、戦後真っ先にインドが独立したことに影響を受けたり、アフリカの人たちの運動体としてのパン・アフリカ会議に参加したりと、様々な国際的な動きに巻き込まれながら、自分たちの置かれている境遇を深く認識していき、独立への動きになっていったと考えられます。

加えて、アフリカ独立の運動はアフリカの中だけではなく、ヨーロッパにとっても大きなインパクトがありました。戦後のヨーロッパの国々は戦争に疲弊し、これからどう再建していくのかという動きの中で、このまま植民地を続けていくのか、どのようにしていくべきかについて、考えることになりました。

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ケニアの兵士と日本の兵士がかつてビルマ(現ミャンマー)で戦っていたというのには正直驚きます。第二次世界大戦はまさにその名のとおり「世界大戦」だったのだと思うと同時に、いままで日本から遠く離れて全く関係のない場所だと思っていたケニア、ひいてはアフリカに対して、俄然興味が湧いてきました。

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