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「ジェンダーフリー」、「クウォーター制」の議論~そこまで言って委員会~

9月13日金曜日、

趣味の筋トレ(今日は腹筋の日)をしていた時、リビングから面白い話が聞こえてきた。

父が「そこまで言って委員会」という番組を視聴しており、そこでは、ジェンダーフリー運動に賛成か反対かという議論(議論といっても、他者の話を一方的に批判する場面もみられたが...)が行われていた。

腹筋ローラーを3セット行うつもりであったが、2セット目が終了した時点でテレビが気になってしまい、そのままの流れでパソコンの前に座ってしまっている今である。

もっとも白熱していた面白い場面は、終盤の、「クウォーター制導入の是非」であったように思う。(2セット目が終わったタイミングがここだったということもある。)

リモート出演で端の方に座っていたメガネの男性は、

女性を理不尽に差別することはもちろんダメなことである。看護婦という呼び名を看護師に変更して、男性が看護師として働くことなどについては大賛成だ。しかし、クウォーター制を導入することによって、本来採用されるべき優秀な人材が制度的に排除されてしまうのはおかしいことである。アメリカではその事例もある。」

という意見を展開。(私の解釈。)

対抗する形で、反対側の端の方に座っていたメガネの女性は、

「憲法第14条には、『すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。』とあるのだから、男性が多く採用されているという事実がある現在において、男女の採用数を同じにすることは平等の大原則である。」

という意見を展開。(私の解釈。)

また、リモート出演で中央の方に座っていた個性的な髪形の男性は、

「生物学的に区別された『セックス』も、人間が文化的に決定したものである」

という意見を展開。(彼はクウォーター制に賛成していた。)

筋トレでテンションが上がっている状態だからかわからないが、ここからは私が考えたことを書きたいと思う。

私は、先に紹介した、メガネの男性の意見におおむね賛成だ。

理由は、

・女性を理不尽に差別することはだめだと思うから。

・制度的に採用の枠を、「生物学的性別」によって区別することは、利潤を追求する企業や、優秀な学生を求める教育機関が不利益を被ることになると思うから。(番組中の議論が、どこの採用の話をしているかは聞き逃した。)

・性別による差別を避けることが目的なら、性別を基準とした採用枠を設けること自体、論理が破綻していると思うから。

男女には、物理的に明確な違いがあることは自明だ。

筋力は男性の方が強い傾向にあるし、体力もある。女性はホルモン関係などが複雑であり、体調に波が出やすい。(専門家ではないので、家族や友達をサンプルにしているに過ぎないが。)母親は赤ちゃんにとっての安全基地である。。。。

個人がしたいと思うことをする権利は持って生まれたものであるし、否定は許されないことであるが、そこに携われる人には限りがあるし、そこでは最大の成果(これは個人の中の最大ではなく、採用も含めた組織としての最大)が求められるのも必然的である。資本主義社会の大原則であると思う。

この人は身長が低いから(身長は努力ではどうにもできないという前提に立って)、それを考慮してバスケットボール日本代表にしてあげよう。」なんてことは言えない。(この例が正しいのかはわからないが。)

やはり、個人は個人が最大限活躍できる場で活躍すればいいのではないかと思う。採用された男性Aさんよりも仕事のできる女性Bさんは、採用されるべきだろう。(当たり前。)

最後に司会の男性が、

通過儀礼としてはやっていいかもしれないけど、そのままずっと続けるかどうかは別の話。」のようなことを言っていたが、この意見にも賛成である。

余談であるが、途中で、先のメガネの女性の隣でリモート出演していた女性が、統計的に何かしらの結果があるということを一つの根拠にして、クウォーター制に賛成していたが、ここで統計的結果を持ち出すのはなんとなく違和感を覚えた。(この違和感をどなたか説明してほしい。)


ちょっと思ったことを書いてみただけのため、思慮の浅い部分は多くあったかもしれないが、最後まで読んでくれた人には感謝したい。

30分以上の休憩になってしまったが、筋トレの続きといこう。





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