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気づいたら売れない芸人だった件

2012年の秋、母が死んだ。  

6年ほど闘病していたのでぼんやりと覚悟はしていたが、そんな覚悟は一切関係ないほど泣きまくった。

24歳にもなってあんなに泣いた男は他を探してもきっとそういないだろう。

亡き母自身も、あの僕の泣き具合を見るとさすがに引くと思う。

それから半年後の2013年春、僕はなぜかサラリーマンを辞めて芸人になった。

もちろん母が死んで頭が変になってしまったから、

ではなく

シンプルに芸人になることが少し前からの夢だったからだ。

これは僕の歩んだ約5年間の芸人生活の、笑いなし、涙はもっとなしの、しかしながらリアルな芸人生活の物語だ。

・上京と母からのSMSメッセージ

「売れてる芸人の人生って最高に楽しいだろ!」

こんな風なことはたぶん二十歳くらいからぼんやりと考えていたように思う。だってお金も沢山稼げて、可愛い子知り合えて何より面白い人らが同僚なんて、そんな人生最高じゃないか。

でも当時、人生で冒険したことがなかった僕は、紛いなりにも国立の大学に通っていて(ほぼ大学にはいってなかったが)、さらに大学院まで行かせてもらっていたので、それを辞めて芸人になりたいなんて口が裂けても親には言えなかった。

そして就活では、なんとなく地元福岡で就職するのはダサく負けた感がある、東京に出て沢山稼ぐ方がかっこいい、とぼんやり思っていたため深く考えず東京丸の内の金融機関に就職した。

就職後、初の帰省でGWに福岡に帰った時に、母はがんの転移で背骨が折れて入院しており、すでに半身不随になってかなり厳しい状況であることを知った。

その時にただの見栄で東京に就職したことを死ぬほど後悔した。  

慣れない東京での暮らしや寂しさの上に、今まではぼんやりとはあった母の死が、急にリアルに感じてしまったことが重なったのだと思う。  

あとどれくらい母さんと話せるのだろうか、

多分もう歩いている母を見ることはできないんじゃないか、

奇跡的にアメリカで使われている薬が日本で承認され、治る可能性もあるのではないか

など、どうしようもないことを考えはどうしようもなく落ち込んだ。

福岡の実家にいた時ろくに家にも帰らず、遊びまわっていたちょっと前のバカな大学生の僕をしばき回したかった。

GW以降は金曜日に福岡に帰り、そのまま母の病院に行き、土日病室で過ごし日曜日の夜に東京帰るという生活を毎週末行っていた。

当時はLCCなどの格安飛行機もなかったため、給料もほとんど交通費で消え、治療費の手助けもできない自分の無力さにも嫌気が差した。

8月頭の日曜日だったと思う。

もう母の意識はないことの方が多くなっており、携帯も自分で触れるかどうかのレベルまで進行していた。

その週も金曜日に福岡に帰り日曜の夜の便で東京に戻ってきて、羽田空港から家に戻るバスの中だったと思う。

母から一通のSMSが届いた。

「お父さんと弟をよろしく頼みます。」

僕はバスの中で泣いた。

こんなメッセージ、見たくなかった。

母が生きることを諦めている悲しさや、頼れる存在でない自分への怒り、いよいよその時が来てしまう恐怖感など何かもう訳がわからない感情になって泣いた。

「任せて!ただ母さんも一緒じゃないとダメだよ!」

「頑張ります。」

多分これが母との最後のSMSのやりとりだったと思う。

その2〜3週間後に母は死んだ。  


・受動的な死と芸人への決意

よくドラマでみるピッピッという音が止まり、波線が動かなくなった。

その瞬間、病室にいたのは僕と親父だけだったため、親父はすぐにナースコールを押し心臓マッサージをした。

骨にも転移しているので、強く押しすぎると砕ける可能性があるから強くはできない。

ここでもし一時的に命を取り止めたとしても、おそらく母の意識は戻らず苦しいだけなため、母のためにはならない。

まして母は意識ない中、苦しそうに呼吸器を外したがっていたので、おそらくそのまま何もせず死なせてあげるのが良かったとは思う。

そんなことはわかっていたし、生きている側の完全なエゴなのだが、それでも生きていて欲しくて泣きながら心臓マッサージをし、医者に変わってからもやってもらいトータル30分以上はしていた。

結果、その波線が再び動くことはなかった。

葬式ではありえないくらい泣いた。

会社を1週間ほど休んだ。

昼も夜も関係なく寝た。

寝てる間、たまに夢に出る母はまだ生きており、その間だけが心の癒しだった。

しかし毎回起きた瞬間、母はもういないことを思い出さされる。

気晴らしに母が亡くなった5日後くらいに近所に弟とテニスをしに行ったが、何も楽しくなかったのを覚えている。

なんかもう全てどうでもよくなっていた。

ただ母との約束もあり、このまま廃人となっていつまでも会社に行かないのは違うと思っていたので、亡くなって10日後くらいに東京に戻って仕事を始めた。

ただ、生きたいという活力はなく、自ら能動的に死ぬ勇気はなかったけど、例えば電車が事故ってそれに巻き込まれるような受動的な死などが訪れればいいな、くらいの軽い鬱にはなっていたと思う。

そんな日が2ヶ月ほど続いて、相変わらず活力なく鬱ってた時に後輩からたまたま電話があった。

大学院の試験に落ちて人生何をすればいいのかわからない、という人生相談だった。

ちなみにこの時の僕は、会社の人など事情を説明しないといけない人以外には母親の病気のことも母親が亡くなったことも言ってなかった。

変な話だけど、母の死を言ってしまうとその事実が周りに受け入れられて、母親が死んだことがより事実になってしまう気がして言いたくなかったのだ。

もう死んだのは事実だったから変わらないのだけど、なぜか知られるのが怖くて言えなかった。

そのためその後輩は気など全く使わず、自分の人生どうしようか悩んでると相談してきたのだ。

とんだ迷惑な話だったが、そこで僕は「俺がお前なら別に大学院のことなんて気にせずやりたいことをやるかな、いいじゃん好きなことをやってみたら。俺ならそうだな、芸人とかやってみるかなー。」とアドバイスにならないような適当な話をした時に、「そういえば俺って芸人になりたかったんだよな」ということをなんとなく思い出した。

そして受動的に、事故的にならばいつ死んでもいいと思っているくらいなら、最後好きなことやろうかな、と徐々に思うようになり、その後輩からの電話の2週間後くらいに今年度で会社を辞め、芸人になること上司に伝えた。

新しく人生が変わることで久しぶりに心がワクワクしており、そのワクワクで母親の死の苦しみを紛らわしていたのかもしれない。

上司はたぶん母親が死んで頭がおかしくなったのかな?などと思ったと思う。

上司に言った2日後には他のフロアの顔も知らない同期からも「辞めて芸人なるんでしょ?大丈夫なん?」などと話しかけれたり、知らない部署の知らない上司から「君が噂の新人君か、もったいないねw」など言われたので、相当プラスではない方で噂が広がっていたんじゃないかと思う。

その後は課長に回らない寿司屋にサシ飲みに連れて行ってもらったり、なぜか隣の課長に会員制のウイスキーバーみたいなところに連れて行ってもらったりして、辞めるなよと止められたのだけれど、いつも辞める理由を「芸人になりたいからです」と答えると、最初は何言ってんだこいつ的な顔をするが、正直分野が違いすぎてもう最後には諦めて笑いながらもうそれならしゃーないな、好きにしろよ笑。と言う感じで認めてもらいその年度が終わる3月末で会社を退職した。

・家のない3年間**

そうこうして僕は芸人になったのだけど、今思い返すと本当に金のない5年間だった。

よく売れない芸人は金がないというけれど、これが本当にない。

まず、ライブが平日昼間に不定期にあり、別で急に何かのオーディションが入ったりで、固定の決まったバイトに入ることができない。

かつ、コンビでやっているとお互いのネタ合わせやネタ作りの時間で、非常に時間が取られる。丸一日考えて、結果ネタができませんでしたなんてことはざらにあり、そういう日は1円も金を生んでいない。

むしろファミレスに1日いて2食ほど頼んでしまうので、マイナスだ。

また僕が出たライブではギャラとして支払われるのはよくて1回1500円だった、そこにプラスしてチケットノルマが5枚あり、それ以上のチケットを売ると1枚あたり1000円なり1500円なり入るのだけど、ノルマを超えないと足りない分が自腹となる。人気コンビ以外は毎度そんなにチケットを売れる訳がなくむしろライブで赤字になることの方が多かった。

そのためよくて僕の月の収入はトータル9~10万円程度だった。

一度まがいなりにもサラリーマンを経験してた僕はぼろアパートなどに住む気がせず、当時の相方と二人で12万のマンションをルームシェアしていた。(今思えば馬鹿な選択で、ぼろアパートでよかったと思う。)

つまり月収から家賃を引くと手元に残るのは毎月3万程度だった。

ここから携帯代光熱費交通費チケット代など引くと、飯代を含めて使えるのは1日500円程度だ。

当時豊島区に住んでいたのだけれど、もし

「ひもじさランキング豊島地区大会(大学院卒部門)」などがあれば、僕は2位を圧倒して背中も見えないレベルでトップだったと思う。

アコムやアイフルが30日間は無利子で借りれることもこのとき知ったし、そのお金を借りる際も自己アフィリエイトでサイトを作って借りれば、1万円ほどのキャッシュバックがあることも学んだ。

まぁそんなひもじい日々だったため毎月家賃振込の27日には「この振り込みさえなければ豪遊できるのに。」と強く思っていた。

すると、その思いはいつの日か

「なんとかこの家賃をもみ消すことはできないだろうか」

に代わり、さらに経つと

「彼女を作って家に転がり込むべきなのではないか」

に代わり、挙句には

「女のヒモになるより売れる道はない。」

と思うようになっていた。
洗脳とは恐ろしいもので、この時は「バイトに使う時間分をネタ作り、ネタ合わせに使えれば売れるのではないか。天才なんじゃないか俺は!」

と本気で思っていた。

そうして僕は2013年の4月から2014年の12月くらいまでやったルームシェアを解消し、ちょっと前にできた彼女の家に転がり込んだ。(当時のルームシェアしている相方にもこの家賃ゼロ計画の凄さを熱弁し、マッチングアプリを始めさせ、この相方も同時に彼女の家に転がり込むことになった。)

ちなみに僕は家具などは全部売っ払って、段ボール2つくらいで引越しをしたが、その相方の方はいつ振られるかわからないというリスクヘッジで、テレビやベッドなどの大型家具はちょっと田舎のレンタルスペースを月5000円で借りて預けていた。

そしてその1ヶ月後、
見事に相方は振られた。

同棲していたのになぜか彼女の方がちょっと実家に帰るから一旦友達のところ泊まってきてよと言われ、そのまま音信不通になり締め出されて自然消滅振られしたとのことだ。

同棲の自然消滅か。

まぁきっと親思いの子だったのだろう。

結果的にその相方のレンタルスペースリスクヘッジは素晴らしい作戦だったことになる。

その後、その相方は見たこともない、立ったまま寝ないと寝るスペースなんてないんじゃないかと思うような狭い家に引っ越していった。

・ライフラインと男友だち

先に言っておくが僕は聖人君子でもなんでもない。

むしろ女性関係で言うとその逆、対義語、愚人下民とでもいうのだろうか。  

まぁ要は人は誰しも家がなくなるとやばいわけで、僕は貯金もいい時で3万程度しかなくとても引っ越しなどできいないので、衣食住の住というライフラインを絶たれると終わりなのである。

そのため、ヒモとして助けてもらっていた子との関係がそろそろやばいと肌感で感じてくると、他にも助けてくれそうな子を探して、別れても大丈夫なようにと、家を失わないリスクヘッジをしていた。

相方がレンタルスペース作戦なら僕は数珠繋ぎ彼女作戦だ。

そんなこんなで2年ほど自分の家のない、非常に無理やりかっこよく言うと、アドレスホッパー的な生活をおくっていた時に、最後に付き合った子のことをめちゃくちゃ好きになった。

というか、好きになってしまった。

顔も好きだったが、僕が車でひかれそうになった時に本気で心配して本気で怒られたことがあり、それがすごく懐かしい感じがしたのだ。

子供の頃に母親に心配されて怒られた感覚に近かったのだと思う。

多分男は皆どこかマザコンの部分があるんじゃないかと思うけれど、僕は特に強いのかもしれない。

これがきっかけではまってしまったのだが、しかしこれがアドレスホッパーの僕的には都合が悪かったのだ。  

どうも、関係が危なくなるとになると他の人を探すという作戦は、その人のことを好きになるとできないのだと思う。

その最後の子は、そろそろ関係がやばいなと思いながらも他に行くことはできず、なんとか関係を修復したいと思っていたために、「もう別れよう」と言われた時に、僕は彼女と家を同時に失った。

めちゃくちゃショックだった。

目の前が真っ暗になり、うまく呼吸ができず、高山病になったと思うくらい酸素が薄く感じた。

僕は最高500mくらいの山しか登ったことがないので高山病はわからないがきっとそんな感じだ。

ただ悲しいのが、この酸素が薄いのが、好きだった彼女を失ったからなのか、家がなくなり明日からの寝る場所を失った危機感からきてるのか区別がつかなかった。

そして生存本能から、かたっぱしから昔仲良かった子にラインしたが、正直1年近く誰ともまともに連絡を取っていなかったので、泊めてくれる人なんていないのである。

1年も連絡を取らないと、まぁそんなもんだ。

東京に住めないなら実家に帰るしかない。

夢破れて辞める芸人は聞いたことあるが、女にライフラインを絶たれて辞める芸人なんて、そんなダサい辞め方聞いたことない。  

そう思ってたころ、大学時代からの男友達に連絡してみた。

ただこれはお前のヒモにしてくれと言う意味ではなく、その彼女とのことを知っていた友人に報告的な意味での連絡のつもりだった。

すると、その友人は

「まぁ振られたのはしょうがないとして、お前行くとこないんやろ?しばらく俺ん家こいよ。そん代わり掃除とか頼むよ」

と、気持ちを察して家に泊まっていいよと言ってくれたのだ。

芸人の友達は金なんて僕と同じく全くないが、大学時代の友達は結構金持ちが多く、彼はカッコよくベンチャーの代表をしていたので家もめちゃデカ家だった。家なき子の俺とは大違いだ。

結果僕は芸人を辞めるまでその彼の家に半年以上無料でお世話になることになる。(途中から電気水道ガスという本来の意味であるライフラインの1/3だけ払っていた)

本来こんなしょぼいタイミングで使うべき言葉ではないのだろうが、

「持つべきものは、男友達である」そう強く思った経験だった。

・変な同期〜月400万円のお小遣いをもらう男〜

芸人になるくらいだから同期には結構変なやつがいて、

キッチンのバイトを2週間したことあるだけで、「芸人の前は料理長やってた」などと嘘しかつかない奴や、居酒屋で塩ばっかり舐める奴、北海道で死んだというていで上京してきてピンク髪の謎チャラキャラの奴や、舞台袖で普通に胸を出す女などなどだ。

中でも一番浮世離れしていたのが、親が大金持ちでお小遣いを毎月400万もらっているやつだ。

ちょっともうよく意味がわからない。

家も30万円の最上階と部屋とは別に、ちょっと疲れた時に休む用の部屋と言う名目で一つ下に25万円の部屋を借りていた。

いや、30万の部屋だけでええやろ。なんなら30万の部屋の方が25万の部屋の方より疲れも取れやすいだろうよ。

彼の実家に遊びに行った時など、親が出てきて今日は遊んでくれてありがとうねと、一人あたり2万円のお小遣いをもらった。

その時8人くらいで行っていたので、トータル16万円だ。

もう、初任給だ。

今思うと、毎週遊びに行っていればバイトなんてせずに済んだかもしれない。

そんな彼だが、もう芸人はやめているのだが金持ち芸人で一時よくテレビに出ており、その後2年間ほど彼の親の企業に税務署から税務調査が入って大変だったらしい。

まぁあの時の16万はどうもまだバレていないようだ。

・祖母の葬式と最後のライブ**

養成所自体も合わせると5年ほど芸人をやっていた。

芸人を辞めた直接的な要因は相方がやめて実家に帰るということだったが、それ以前にいつ売れるかもわからないひもじい状態が5年続き、いつまでもできないと言うのが根底にあったと思う。

最後のライブの数日前に祖母が亡くなった。5年前に亡くなった母の、お母さんだ。

僕は通夜には行ったが、最後のライブの関係で葬式には行かなかった。

もうやめるのだからそんな大事なライブなんてなかったが、ずっとやってきた相方との最後のライブだったのでそのライブの方に出たかったためだ。

親不孝というか祖父母不幸な孫だ、ごめん、ばあちゃん。

たまたまなんだろうけど、母親の死から始まって、祖母の死で終わった芸人生活だった。

間違いなく母が亡くなる前と後で僕の人生は大きく変わった。

正直亡くなったすぐ後のことは記憶がぼんやりとしていて、感覚的には気づいたらもう芸人になっていたような感じだ。

もちろんもし母が亡くならずに済むのであれば、全てのものと引き換えでも秒速で交換するけれど、母の死がなければ僕は間違いなく芸人にはなってなかったと思う。

母の死は僕から一番大切なものを奪った代わりに、夢への背中も押してくれた。

そして今、芸人を辞めて2年ほど経ち思うのは、お金もなければ売れる気配もない(多分出れたテレビはたまたま出れたのも合わせて3回ほど)芸人生活だったけれど、少なくともあの時の僕にとっては救われた経験だったと思う。

もし芸人にならず、夢を追うワクワク感がなく、そのままずっと会社勤めをしていたらもしかしたらどこかでガチの鬱になっていたかもしれない。

幸い今人生は楽しく、収入も辞めずに会社員をやっている場合と同じくらいにはなり(芸人時のライフラインを失うトラウマからマインドは変わらず貧乏だが)、受動的にでも死にたいなんて全く思わなくなった。

亡くなって8年が経とうとして、もう母の声がどんな感じだったか、はっきりとは思い出せなくなってきている。

夢の中でも、母が健康な状態で出てきてくれることはほぼなくなってしまった。

「あんた5年も好きなことをやらせてもらったんだから、そろそろ母さんと約束した弟と親父を頼むわよ。」

とかいう母からのメッセージなのかもしれない。

参ったな。

「わかってるよ、ちゃんと俺に任せとけって。」




とりとめもない文章になったけど、覚えている限り忠実に書いた母と芸人時代の話でした。

お母さんがまだ元気な人や、夢を追いたい人や、ヒモ生活に興味のある人が何かしら、響いてくれればそれはもう本望です。

敬具

P.S.同期の中には今毎日のようにテレビで見る売れてるやつもいれば、売れかけてるやつもいて、辞めた僕からすると本当にすごいと思う。いつの日か、あの金のない苦しい中辞めずに頑張ってる同期も含めみんな売れてくれるとよいのだけれど。けどやっぱりちょっとだけ、ほんのちょっとだけみんなのことが羨ましいぜ。

#キナリ杯 #ノンフィクション #初投稿

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