「客観性の落とし穴」を読んで
「客観性」って・・・
わかってるつもりだったけど、読み始めたら「客観性」がわからなくなってきた。
Wikipediaによると客観性(哲学)は、「知覚または感情または想像に起因する個人的主観から独立して真であるとする概念」。どうやら、哲学的な見方と別のものがあるらしい。Web上の辞書では、「主観を離れて独立していること。いつ、誰もが納得できるコトモノ」らしい。・・・
本書によると「客観性」は、時代とともに概念が変わってきたらしい。19世紀以前の客観性は、第三者の立場で自分語りする「主観的客観性」だったらしい。それが、コミュニケーションの円滑化に伴い、情報の共有化や共通認識が拡がり、19世紀から20世紀にかけて、世界のあらゆる事象を客観的にとらえるようになっていったそうだ。主観ではなく、「誰もが理解し得る客観的な事象こそが真理である」というふうになっていたそうだ。
わかったような、わからないような・・・。
言葉も文字も、国や地域によって異なるので共通認識できない。「誰もが納得し得る」は、「数字や音符」ぐらい、か。かくして、「数値化」が客観性のエビデンス(証拠)として挙げられていく風習が出来上がっていった。
なるほど。
著者は、「患者が苦痛を訴えているのに、検査数値の裏付がない時、患者の苦痛を信じきれない」という医療現場に遭遇し、事態を危惧してた。確かに、こういうことってありそうだ。TVなんかのCMは、昔っから「この洗剤を使うと、こんなにフワッと仕上がります!」なんて、如何にも怪し気だったけど、最近は「□□を1日△回飲むと、90%以上の人が以前よりも健康になった!」なんて宣伝が目につく。客観性なんてどこにもないけど、「90%」という数字が独り歩きする。
著者は、「社会も心も、数値化され客観的な事象としてとらえられ始められ、個々人の経験が持つ価値が切り崩されていく」と記している。同感だ。
自然科学の領域での客観性は、数値化し易いかも知れないけど、社会・人文科学の領域での数値化は、著者のいうように個性や経験を排除しがちで、疑問が残る。
規則性や普遍性のようなものを求めるが故の客観性と、汎用性や代表性を求める意味での客観性は、意味が違うということだろう。だから、何でも間でも数値化すればいいわけじゃない。ふるい落とされた事実に気付き、考察しなければ上手くいかない。
数値化のマジック
美味しい食事も、心地よい音楽も、一人ひとりの個性や経験が基礎になっていて、主観的なもの。
だけど、多くの人の「主観的」な意見を数えてみると「客観的」に見えるから不思議。統計的な確からしさ、というのか。
例えば、食べログで4つの★がついた料理と、1つ★の料理。★が多い方が美味しそうな気もする。けど、ホントだろうか。
アーティストの新曲を聞いたレビュー。高評価ばかり付いていると、イイ曲なんだろうか。
誰かのイイは、私のイイとは違うのに・・・。個性は★の数ではわからない。一人ひとりの経験は★では表せない。
たくさんの人が美味しいと思ったり、イイ曲だと思ったのは事実なんだろう。けど、それは、自分にとって美味しい料理とは限らないし、自分が好きな曲とは限らない。
食の好みも、音楽の好き嫌いも、多数決で決まるもんじゃない。でも、“みんなが”美味しい、イイ曲と言ってると、同調圧力が掛かる気がする。
「おふくろの味」は、みんな違う。でも、おふくろの味は懐かしく、美味しさにつながっている(人が多い)。そんな食の好みを持っていても、SNSの評判を気にして、美味しいと言ったりする時代。
WebとSNSの拡がりが、美味しいという「主観の数値化」を容易にして、あたかも「客観性」を持つかのような顔して広まっている。「“ふつう”、こうだよね」「“みんな”が言ってるから」・・・。
ヘンな世の中になってしまった。
ともかく、本書では、何度も読み返し、あれこれ調べ、「客観性」について、いろんな事を考えさせられた。ありがたい。大切な一冊となった。
(敬称略)
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