昨夜のラブレター %4

頭頂の禿げた中年のタクシーの運転手は、ルームミラー越しに後部座席の女の裸体を見つめる。ふくよかとは違う、スレンダーとも違う、セクシュアルな魅惑を持った肉感を、黄色の女の流線形に誘われるままに、運転手は淫らな目で追っていく。視線のはじまりは決まってへそだ。わずかにくぼんだ穴の内には複雑な文様をつくった小さな肉の丘陵。

「もしもエアーズロックを上空から見下ろしたならば、おれはこの女のへそを思い返すかもしれないなぁ」

運転手は、見たことのない神聖な土地を女のへそに重ねた。そうしてへそから丸い腹へと這い上がっていく。柔らかな皮膚と肉とに隠れた肋骨を足掛かりに、みずみずしく育った乳房を知らず目指すめざす。薄桃色の頂に腰を据えて、脇腹のうねりを眺め下しながら一息入れると、緩やかな坂を足早に下っていく。勢いづく助走のままに細く頑丈な鎖骨を一息に飛び越えていくと、一粒の汗の泉にダイブする。汗。跳ねる水しぶき。豊饒な一粒。女の熱い体温からわずかに低まった泉は、運転手の息を漏らさせた。

「嗚呼」

思わず見上げた先に、女のシャープなあごが見える。

「あそこを越えれば」

運転手はゆっくりと視線で這い、ダークチェリーの女の唇に触れた。触れた刹那に、女の唇の端が上に動く。女が笑った。運転手はつい見上げると、女の眼が男をじっと見据えていた。

「信号は青に変わったわ。さあ、急いでちょうだい」

急いでそらせた視線の先の信号の青色は、よく見てみれば、小さな幾つもの球形ブルーランプの集合体で、運転手にはそれが昆虫の複眼のように思われた。そうしてそのひとつひとつが後部座席の裸体の女の眼となって映るしだい。

「青い複眼のようだな」

「いや、パープルの葡萄じゃないかな」

「いやいや、チェリーの唇だろうさ」

運転手はまたしてもミラー越しの女を見た。見る度に、女は口元に笑みを浮かべて、ただただじっと運転手を見つめていた。

「すると何だい、もしかするとこの女はおれに気でもあるんじゃぁないか?」

運転手はそう思えてくると、ついには強気になってミラー越しの女の眼をそらすことをせずに見つめつづけた。それへ対して女の方は照れる素振りも見せずに見つめ返す。

「ほら見ろ! この女、おれを誘ってやがるぜ! カマンマイベイビー!」

運転手は零れだしそうな笑みを抑えて負けずと色気のまじった視線をミラー越しに送りつづけた。永いあいだそうするうちに、運転手の視界は疲れのためか或る変容をはじめていっていた。

はじめに女の眼のまわりが妙に曖昧になり、ただその眼の中心だけが運転手の視界の中心に息づいて、少しずつ運転手の方へと近づいてきた。運転手の視界のなかでは、女の身体や周囲の環境はかなぐり捨てさられるようにして、ただ女の眼だけが銀河系のブラックホールのような強烈な引力で印象をたなびかせていた。

「ああ、そうか。これを俗に言う宇宙とでも呼ぶのかもしれないな」

運転手は遠のく意識のなかでそのようなことを唾を垂らせながら思い、知らぬうちに、運転手自身の眼窩のなか奥深くへと入りこんでいた。

運転手が、自身の眼の穴の中へ入りこんでいたことを知ったのは、背後の穴の向こうで見覚えのある輝く青信号と小さな景色を垣間見たためであった。

「ははん。すると、ここはおれの眼の中というわけだ。ははん。困ったもんだな」

運転手は、禿げてなくなった前髪のあたりをさすりながら大げさにため息をついた。

「さて、これが現実ならば、あまりにシュールだぜ」




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