昨夜のラブレター %3

ソーコと名乗ったベージュコートの露出狂の女は、目の前で膝をついて涙を流す男の肩へそっと手を置き、抱擁すると、男の耳を覆うハイソックスの上から言葉をささやいた。ソーコの喉が振るわせた言葉は、小麦粉を振るいにかけるようにして、編み込まれた綿地の僅かな隙間の数々へと這入りこみ、粒の細かく滑らかな音となってマシューの鼓膜に触れていった。

「一緒に逃げましょう」

泣き崩れて赤い目のマシューは女の声に顔を向けると、東洋人の神秘的な笑みが自分に向けられているのを見た。

「けれどL2の足の指の爪がどこにも見当たらないんだ」

マシューは自分の足の爪を指さして、R1からR5、そしてL6からL10までをもう一度数えると「やっぱり無いよ!」と叫んで涙をこぼした。

「あなたの名前を教えて。私はソーコよ」

「私はマシュー乃木介だよ。ああソーコ、マシュー乃木介の指が見当たらないのだよ」

「マシュー乃木介、いいこと? ここにはきっとあなたのL2の指はないんだわ。そうしてどこへ行ってもL2は見つからないわ。なぜだか分かるかしら?」

力強く見据えるソーコの顔にマシューは少し怯えながら、何故だかは分からないと答えた。

「いいこと? あなたの左指の爪に書いてあるL7が、実はL2だからよ。けれどいいこと? もしもあなたがL7をL2と書き直したところで、そうして6を1に、8を3に、9を4に、10を5に書き換えたところで、きっと次にはあなた、L6や7がどこにも無いと泣くのよ。分かるかしらマシュー?」

マシューは怯えた表情のままで頭を横に振った。

「ここはそういう所なの。これだけを覚えておいて。L2やL7に気を取られていてはいけないの。マシュー、あなたがずっとそのままでは、あなたはあなたの引力を振り切って宇宙の虫になることは出来ないのよ」

「宇宙の虫だって?」

「そう、だから一緒に逃げるのよ。マシュー、あなたは知っているわね。さっき『奴ら』と言ったのは誰のこと? 『神』と呼んだのは誰のこと?」

「わからない。とっさに、不意に、私の口から零れたんだ。いつだってそうだ。私は私の意図に反して私の身体を言いなりにしていやがるんだ。そうだ、ソーコ、君もそんなことに違和感を持ったりなどはしないのかい? つまり、ふと気づいたらついさっきまでの自分の行動の所在が分からなくなったり、目的が突然に失われたり、すると今の自分が宙に浮いたようになって呆然としたり、そうしてそんな自分が視る世界すべてが宙に浮いた蜃気楼のように思えてきたりして、そうだそうだ、蜃気楼ということさつまりは、けれども蜃気楼のくせして確かそうな形で世界は私に肩をぶつけて来たりなどしやがって、そのくせ向こうは謝ろうともしないのだぜ、それで私はついご立腹になって世界の胸ぐらを掴んで思い切りぶちのめしてやろうという考えを瞬間よぎらせたりなどするんだけれど、それは良くないことだよと私が言うものだから一度ふりあげた手をポケットに入れなおすんだ、すると何故だか世界は透き通っていってね、向こうの向こうの方まで澄み渡って世界の方から私に語り掛けて来て、それでマシュー乃木介は涙をつと流すんだなあ。その涙はきっと私が流したものではなくって、流させられたものに違いないんだけれど、乃木介はそれでも一向に構わない。だってほら、世界はきっとそういうものなんだろう?! 嗚呼、ソーコ! ソーコ!」

マシューは、ソーコの問いかけに答えようとして口から出て行く自身の言葉のいちいちに触発されていき、ひとり勝手に興奮していき、最後に再び重たくうなだれた。うなだれたマシューを、ソーコはもう一度つよく抱いてやった。

「マシュー乃木介、いいこと? 一緒に逃げるのよ」

「何処へさ」

「穴の際へよ」

マシューはゆっくりと脱力して寝入った。

ルーフレールに大きな亀の甲羅を載せて通りをのんびり走るタクシーをソーコは呼び止め、頭頂が禿げかかった中年の運転手の手を借りて、マシューを後部座席に乗せて隣に座った。

運転手はルームミラー越しに、背後で裸体になった女が、脱いだベージュコートをバスローブ姿の男の胸へ掛けてやるのをちらと見た。すると瞬間に女と目が合った。女の眼はミラーに映る運転手の眼の内をじっと見据えていて、運転手は石化でもしたように女の眼から視線を離すことが出来なかった。

「あの、つまり、どちらまで行かれますか?」

おずおずと目的地を訊ねる運転手に対してソーコは、運転手の目の内の或る一点だけを直視していたのだが、もしかするとその内にこそ彼女の目的地があるのかもしれない。そうして実際、ソーコはただそこだけを見据えて運転手に行き先を伝えた。

「4丁目のヴァニティホールへお願い」

言うのはこれで二度目だ。或る必然の話である。

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