モロッコ旅行記 3月3日

3月3日

朝に起きて、外へ出る気力もなく明日の予定を立てる。おおよそを決めると、心はすこし弾み、マラケシュ駅近くのスプラトゥールへ、翌日のバスチケットを買いに行く。
サイバーパークで芝生に寝そべっていた青年二人組に声を掛けられ、十分ほど彼らと煙草を吸う。
「おれたちはたいていここにいるから、また来いよ」
「また来るよ」
と言い残して別れる。
ゲリーズと呼ばれる新市街を歩いていく。別荘地のよう。平たく均された土地に低く広く、豪邸やホテルが並ぶ。一画に空地があって、アブラナが咲いている。日本で見るのと色彩が違うのは、激烈の陽光のせいもあると思う。花弁はイエローで、緑はグリーン。蛍
光カラーのような黄色だった。大きくとった中央分離帯には歩道があって、オリーブが並木をつくっている。馬車やラバがトコトコとそばを往き、わたしを追い越していく。あまりにだだっ広くて、人口密度は薄く、ゴーストタウンになったときにはさぞかし心細い街
になると思う。
スプラトゥールのチケットカウンターのおじさんは良い人だった。
簡潔な英語でスムーズに購入できた。
帰り道、ゲリーズ中心広場へやってくる。何があるわけではない。
スケートパークになっている中央広場の円形のスタンドに座っていると、現地の高校生が話しかけてきました。
「なにを書いているんだい」
とか何とか言っていましたが、ここに書いたことを英訳できるはずもなく、彼が好きだというアニメの話を聞く。家で、パソコンで、タブレットでアニメを自作しているという。今、こうしてメモをとる隣でも、この好青年は絵を描いている。
日本の言葉の文化として、俳句のことを頑張って説明するも、彼はは優しいから「アイアンダースタンド」と言ってくれるが、千分の一どころの騒ぎでない、伝えられたものは。アラビア語、日本語、英語で文字を書きあっているうちに彼の友人がやってきて、キフをすこしもらう。
帰り路のサイバーパークではあの兄ちゃんたちがまだ芝生にいて、手を振りあった。
フナ広場から銀行通りに入ると、光る投げ輪やおもちゃを売る行商人の手から、いつも見かけるシャボン玉が放たれている。そのひとつがわたしの左手にあたって冷たく、何より、シャボンの清涼な香りが鼻をやわらかに刺激した。昨夜シャワーを浴びず、ゲリーズ中央広場の炎天下で一時間ばかり過ごして乾いた身体には何よりの快さだった。いつも数人が、石鹸液を入れた拳銃式のおもちゃの引き金をひいて、その銃口からいくつものシャボン玉を浮かばせているが、あれは売り物としての実演販売である一方、灼熱のマラケシュでの、モロッコ人、ベルベル人の、ひとつの納涼の手段ではないかと考えた。化学的な石鹸の匂いではあるが、ここでは嘘のように清々しく、心すらも洗われていくようだ。マラケシュは糞尿とシャボンとハシシの匂い。
スーク内のサロンへ行くと、ナルトを見ていた白衣の男が居て、ここでもアニメの話をする。ネットフリックスやフリーの動画アプ
リをいくつもインストールしていた。サッカーワールドカップでモロッコはグループBらしく、スペイン、ポルトガルと同じだという。
お互いに大変だなァという話をした。
サロンは今日、軒先で大量のパンを焼いている。大口の受注があったのだろう。スカーフを巻いた女がパンを叩いて延ばして鉄板に置く。小さなペットボトルに琥珀色のオイルが入っている。上質のものではないだろうと思う。
マラケシュがとりあえず最後だからという感じで、気分はちょっと開放的である。凝り固まった頭が内側からもみほぐされていく気分をサイバーパークで味わった。思うよりも以上に、身体や頭はずいぶんと固くなっていたようだ。
午後五時前、正午前にパンとバナナを食べただけだが空腹を感じない。明日ここを発つというのが名残惜しくなってくる。昨日までは何もなくて塞がるばかりだった心地は、次の予定が経つと容易く解かれて、鼻先に人参を吊るされないかぎり、わたしは躍動していかない。
昨日の下水工事はすでに終わって土が埋められている。石のタイルはまだ敷かれておらず、茶の土が露わになっている。赤い塗料の
剥がれた防護柵が置かれている。
あるいは、名残惜しさが旅をつくるのか、とも思う。そうしてどこへ居ても、そこを去るときにはいつもやり残したことがあって、後ろ髪を引かれ、それを振り切り、千切れた髪の毛を探し求めに、それを道標のようにして、再訪することを願うのだと思う。飛び立
つ鳥は後を濁さないらしいが、わたしはわたしの残滓をまき散らすらしい。犬の縄張りづくりとさほど変わらない。それだから、わたしは人の糞尿の薫るフナ広場の片隅に誘われたのか。欧米人の集うカフェテラスよりも、あまりに動物的な香りのする片隅の方へ。
マラケシュの鉄道駅近くのゲリーズはたしかにタウンだったが、フナ広場はメディナであってタウンではない。それでは都市でなく市場か。スークとメディナ、市場と旧市街。とりあえずはそう呼ぶほかない。居住地では商業がない。日本の言葉で他に適したものもありそうだが。あるいは、その「メディナ」「スーク」というのを描写することが、それで以って言い表すことが、わたしの役割らし
い。
「スーク」アラブ人やベルベル人の世界で商業地区をいう。
「メディナ」旧市街、城壁内の複雑な小路は城塞としての役割。
フェズとマラケシュ再訪時にはこのことを考慮して散策しよう。
サロンを出ると板を敷いたアーケードの屋根から小雨が舞いこんでくる。下水工事現場は終わったものと思っていたが、掘った溝の上に板が並べ置かれていて、そこを歩きすぎる観光客の幾人かは鼻を抑えている。広場へ出ると、
「パラ、パラ、パラ」
と雨傘を売り歩く声がする。銀行通りのシャッターを下ろした店の軒下に、威勢のいい男の呼び声。ホテルのナンバー6に泊まっていた時によく外から聞こえていた売り文句だ。現地の女性たちがその前に集って衣料品を投げ渡されている。蚤の市のようなものなのだろう。叩き売りの声。
ワルザザードで宿泊する予定のホテルにフロントから電話するも、わたしの英語を聞いて面倒と思ったか、早々に電話を切られる。
活動的、開放的な気分に任せてホテルから一分と離れていないローカルハマムへ行く。フロントで近くにあるか訊ねると、近くにいたおっさんが笑っていた。そのおっさんについて小路を歩く。看板があるかどうかも分からない背の低い入口を開けて、おっさんが何事か中の者に話している。
入ってすぐにカウンターとは言えない台があって、番台らしき爺さんがいる。薄暗く、台の向こうに簡易のロッカー、というよりも段組みされた物置がある。広さにして六畳ほどの狭い空間で、服を脱げとジェスチャーされる。パンツ一丁になって、衣類を持って来たエコバッグに詰めこんで番台の爺さんに手渡す。別の爺さんがついてこいと手招きする。爺さんは大きなバケツを二つもって安い扉をあけて中に入っていく。より薄暗くなる。
すこしだけ蒸した空間があって、そのさらに奥へ案内される。湯浴み場のようなものが小さなくぼみの内にあって、先客がそこで身体を洗っている。最奥の空間の手前に水汲み場があって、爺さんはそこでバケツに水を溜めると、奥の間にぶちまけて床を洗い流した。
そうして、電気のない奥の間に寝転ばされる。爺さんは出ていく。しばらく待てということだろう。
仰向けになって待つ。先客がわたしを見て笑む。わたしも笑いかける。暗く、時折り天井から冷たくなった雫が胸を叩く。暑くなく、寒くもなく、裸で居てちょうどいい室温。洞穴といった具合だ。
しばらくしてパンツ一丁になった爺さんがやってきて、まずはバケツの湯で身体を濡らされた。そうしてアカスリのグローブで全身を洗われていく。ちっとも痛くない。姿勢を変える時にはぱんぱんとタップされる。仰向け、うつ伏せ、横向き、手足をピンと一本にし、脇や首筋、二の腕、肘、肛門(!)と全身の垢がこすり取られていく。初めてのアカスリ、二十九年間の垢がこすり取られてい。
爺さんは「グッド?」と事あるごとにたずねてきて、その度に「グッド」「ベリーグッド」と返す。爺さんの柔和な表情に心も解
かれる。大量の垢。けれども二十九年間の垢とは思えない。きっとキリなく出るに違いない。湯で垢を洗い流し、バケツを頭の上から
勢いよく被される。すると「サボン」というので、持参した石鹸を手渡す。ふたたび寝転がって、今度はサボンで全身を洗われる。うつぶせていると、爺さんが腰に座って、背中や足をマッサージする。
ほとんどソープランドに近い。というのも、わたしの尻の上で不必要に爺さんの腰がへこへこと動くような気がするからだ。なるほど、ことによるとゲイと思われたか、あるいは爺さんがそうなのか、とさほど拒否反応を示すことなく、されるがままになる。そうしていると肛門を執拗に洗ってくる。サボンのために穴までするすると爺さんの指が滑りこんでくる。いや、丁寧に、入念に洗ってくれているだけだと思いなおすと、そこから行為に及ぶようなこともなくて一安心した。けれども、安心するほど心は不安の方へ振れていなかったから、別段の感情も湧かなかった。
「フィニッシュ」と言って、全身を湯で洗い流す。チップの手真似をされて、向こうのバッグの中にあるからとこちらも手で伝えると、爺さんは納得して、じゃあ出るぞとのこと。時間にして二十分くらいはアカスリ、マッサージをしてもらったと思う。茶色い水で濡れた脱衣所で身体を拭いて、着替えを終えると、ポッケからありったけの78DHを渡すと、番台の男が「十分だ」という表情。ホテルフロントは「12DH」と言っていた。入浴料が12DHで、チップとして66DHってのは、まあ妥当だと思う。次はシャワーサンダルだけでも持参したい。身体を洗ってくれた爺さんに礼を言ってわたしたちは抱擁した。また来ようと思う。
明日のワルザザードでのホテル予約はとれないまま。なんとかなるだろうと思う。

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