昨夜のラブレター %2

「胡蝶の夢かしらん」

マシューは目前の若い娘の乳房を眺めながら頭へ載せた人面蝶を一往復半ほど撫でてみた。

「夢でございます。怠けた神の夢でございます」

人面蝶はそう言うと絡みつくマシューの色の薄い髪の毛を振りほどいてビルディングの隙間のせまっ苦しい空へ羽ばたいて行った。羽ばたいた先の向こうに重なった陽気な日の光の中で、人面蝶はディビッドバーンに似た顔でマシューと娘とにウインクしてみせた。

「ははん、なかなか愛想のいいしぐさをするものですなあ」

マシューは人面蝶がプリズムみたく散光して消えてゆく後姿をしげしげと眺めながら耳へ垂らせたホワイトソックスを耳の裏にかきあげた。

「ねえ、そうは思いませんかエンジェル」

裸体を露わにしていた若い娘も同じように人面蝶の行く末を見守っていたが、マシューの問いかけに顔を向きなおして、コートの前ボタンを下からゆっくりと留めていった。娘はその時ずっと、マシューの目から零れ落ちていきそうな涙を見据えつづけていた。

彼はなぜ泣いているのかしら。

若い娘がノールックでコートのボタンとボタン穴を手探りするその指の淫靡なしぐさに、マシューは興味を持ってゆっくりと近づいて行った。

「ねえ、あなたはなぜ泣きそうになっているのかしら。筆記用具がないから?」

マシューは初め、娘の言う筆記用具というものが何なのかさっぱりわからずにいた。なぜこの場面で筆記用具という単語がエンジェルの口から飛び出すのだろうか、エンジェルというのはやはり人智の及ばぬところに生きているのだなあ、と感心しながらじっと娘の指先を見つめた。見つめているうちに、彼女の手の爪に番号が書かれていないことへ気づいた。

「エンジェル! 大変だよ! あなたの爪に数字が書かれていないじゃないか!」

マシューは、コートのボタンをすっかり留め終わった娘の方へ駆け出すと素早く娘の手を取って娘の爪をさまざまな角度から見まわした。

「やっぱりだ、数字が書かれていない。これは大変だ。大丈夫かい、君は幸せに生きられているかい。かわいそうに、これじゃあ右も左も区別がつきっこないよ。大変だ。くそぉ、すべて奴らのせいなんだ。奴らが君みたいな可憐なエンジェルを見下ろして悦に浸ってやがるんだ! 一刻もはやく数字を書かなくっちゃいけないよ。そうだ、不図したエンジェル、君は筆記用具を、つまりボールペンやチョークなんかをいま現時点に持ってはいないかな。持っていないなら、うん、それは仕方のないことだし、ああそうだ、ぼくも今は持ち合わせがないんだったなあ。もしもそのネッカチーフの裏に隠し持っているのならば、そこからするりと出してくれればぼくは歓迎さ」

すると若い娘はマシューの鼻先すぐそこで、コートを勢いよくはだけて裸体を露わにした。

「胡蝶の夢かしらん」

マシューはそう呟いてから頭に載せた人面蝶を撫でようとしたが、人面蝶がどこにも無くって幾度も頭を撫でまわした。ちょっと待って頂けますかと、娘に満面の笑顔でタイムを申し入れてからマシューは両手で頭の隅々に幾度も触れた。そうしてそのうち、人面蝶が自分の頭にいないことを知ると、マシューはひどく落ち込んでアスファルトへ膝から崩れ落ちてしまった。

「ああ、どうしよう。ぼくには、ぼくには筆記用具もなければ、帽子をかぶることすら許されないんだ! 神よ! なぜあなたはぼくをこんな理不尽な世界へ産み落とされたのだ!」

自分の足元で泣き崩れていくマシューを眺めおろしながら、若い娘はもう一度コートのボタンを下から留めていった。若い娘は、アスファルトへうなだれたマシューの手の指先に数字が書かれているのを見つけた。そうしてボタンを留めていく自分の指先をしばらく眺めた後に、マシューの肩へそっと手を置いて自分の名を伝えた。

「私はソーコ。あなたが見ていた夢の住人よ」

マシューはソーコの顔を見上げた。ソーコの黒々とした長い睫毛の向こうに、マシューはわずかな褐色の肌を視た。

「東洋人かい?」

マシューの問いかけにソーコは黙って頷いた。

「おお! おお、マリア! マリアは貴女でしたか!」

マシューは一度見上げた視線をずっと変えられず硬直したように(凍死したように!)ソーコのふたつの眼穴から降り注ぐ光のなか、恍惚の表情で口をあんぐりと開けたままに居た。

マシューとソーコは、陽気なサウスアベニューの一角でふと出くわした。

ふと?

とんでもない。或る必然である。

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