でき太くん三澤のひとりごと その146
◇ 音色
私は小学生のころ、勉強は全くといってよいほどできませんでした。
たしか私が小学4年生くらいだったころのこと。
学校の先生に「右」の漢字を正しい書き順で書いてみなさいといわれ、みんなの前で黒板に「右」という漢字を書きました。
すると先生は「はい、違います。やっぱり間違えましたね。書き順が間違っています。これは1年生でも書き順を知っている漢字です。しっかり覚えましょう」と言われました。
その当時の私は「右」を、横線から最初に書いてしまったのでした。
(こういう恥ずかしいと感じたこと、屈辱的なことというのは、何十年たっても覚えているものです。その意味では、「教える」という立場に立つ人は、自分の言動、行動にはよほど注意しないといけないと思います)
4年生にもなって、1年生でも知っている漢字の書き順すら正しく知らないのですから、私が学校に行く楽しみといえば、友達と遊ぶこと、給食を食べること、学校の帰り道に寄り道をしたりすることでした。
そのころの私は、ずっとこういう日々が続くものだと思っていました。
しかし、今私は人生の折り返し地点を過ぎ、自分の「死」というものを意識するようになってきました。
この「死」というものは、だれにも平等に、必ず訪れるものです。
どんなに裕福な方でも、どんなに貧しい方でも、どんなに素晴らしい業績を残した方でも、いずれ必ず死は訪れ、そこから逃れることはできません。
先だって、フジコ・ヘミングという私の好きなピアニストが亡くなりました。
享年92歳。
天寿を全うしたといってよい年齢でしょう。
フジコ・ヘミングさんが脚光をあびるきっかけとなったのは、おそらく1999年か2000年ごろのテレビのドキュメンタリーがきっかけだったと思います。
彼女が幼い頃は、ピアノの天才少女と呼ばれ、まさに順風満帆な人生を送っていました。だれもがそのな彼女の活躍を期待していたことでしょう。
しかし、そんな彼女にある日、悲劇が訪れます。
風邪をこじらせたことによって、音楽家にとって大切な聴覚を失ってしまったのです。
こういう悲劇を背負いながらも、何とか負けずに生きてきた人が奏でる音楽に、その当時の私は心から感動しました。
私はクラシック音楽にくわしいわけではありませんでしたが、理屈抜きに、彼女の演奏を聴いて自然に涙がこぼれました。
これまで何度も聴いてきたショパンやリストの曲でも、まるで違ったもののように感じたのです。
そういう私を見て、批判する人もいました。
「なにもクラシックのことやピアノのことをわかっていない」
「もっと技術的に優れた人がいるよ」
「ドキュメンタリー番組にかぶれているだけじゃない?この人、ミスタッチ多いし」
たしかにそういう意見もあるでしょう。
でも、人が楽器を使って奏でる音というものは、その人がこれまで背負ってきた人生が、その音に「色」をつけるもののように思います。
音楽家でもない私がこのようなことをコメントするのは、少し心苦しいのですが、「音色」とはそういうものなのではないでしょうか。
ベートーヴェンの「月光」という曲も、それを作曲した当時のベートーヴェンの状況を理解することで、その旋律に「色」を感じることができるようになります。
何も知らないときには感じられなかったことが感じられるようになる。教養を身につけることで、より感情を豊かにすることができる。そういうことが私たちにはあるように思います。
3月には、フジコさんと同じピアニストであるマウリツィオ・ポリーニも亡くなりました。
この方はフジコさんのような悲劇はなかったかもしれませんが、芸術というものにこだわり抜いた生き様が「色」となり、他の追随を許さないような演奏をする方だと思います。この方の演奏は、ひとつの音を響かせただけで「他とは違う」というものを感じさせるインパクト、響き、そして「色」があります。技術的にはもっと優れた方はいるかと思いますが、これほどのインパクトを感じることは滅多にありません。
では、その「色」を感じる感性というものは、どうしたら得られるのでしょうか。
私は、人生経験、教養、そして生き方によって得られる部分が大きいと思っています。そして、偏見のない素直な心があることが重要なポイントなのではないかと感じています。
フジコ・ヘミングさんや、マウリツィオ・ポリーニさん、そしてベートーヴェンの演奏を聴いても、何も感じない人もいます。
私はそれを決して批判するつもりも、否定するつもりもありません。
たまたま、そういったものに心を揺り動かされるような経験をしてこなかったのかもしれません。そういう人生もあると思います。
逆にそういう人は、演歌とか美空ひばりの唄だったら涙するかもしれません。
まさに人それぞれの感性があり、人それぞれ感じる「色」がある。
だれも否定できないものなのだと思います。
でも、必ず訪れる「死」を前にして思うことは、批判や偏見にとらわれず、できるだけ多くの「色」を素直に感じ、その「色」を共有し涙する。そういう生き方をしてみたいものです。
私は時折、実践教室の子どもたちに自分が好きな音楽家の演奏を聴く機会を設けたりします。
すると、子どもたちの多くがその「音色」に、「素敵!」、「すごい!」という感想を言います。
偏見のない素直な心は「色」をそのまま、心で受け取るのだと思います。
その「色」が何によって作られたのか。どのようにして紡ぎ出されたものなのか。それを子どもたちは、自分の人生経験や教養を通して掴んでいくのだと思います。
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