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でき太くん三澤のひとりごと その143

◇ 世のため人のため


今日も実践教室がありました。
今日の実践教室の雰囲気は、自己採点で100点満点中、70点。
自分としては満足のいく雰囲気ではありませんでした。

原因は子どもたちにあるわけではありません。
子どもたちは何も悪くはありません。
すべて原因は私にあります。

教室の雰囲気を左右するのは、その教室で中心となる存在である私です。
ですから、私のモチベーションが下がっていて、それをしっかり調整しきれずに授業に臨めば、それがそのまま教室の雰囲気に影響を与えてしまいます。

私の若干下がったモチベーションは、教室の雰囲気に影響を与え、それが子どもたちの集中力や、学習の質にも影響を与えてしまうのです。

今日は朝から来客や電話なども多く、実に慌ただしい1日でした。それをしっかり整理できずに授業に入らなければなりませんでした。

とはいえ、私も昨日今日この仕事を始めた素人ではありませんから、そのような中でも表面的にはそつなく授業を行うことはできます。ですから、今日の実践教室に来た子どもたちは、何ら通常とは変わらない授業であった印象を持っていると思います。

でもこれは、私が経験から得た技術を使ってごかましているに過ぎません。今後は自分がどんな状況でも100点に近い授業、雰囲気づくりができるように努力していきたいと思っています。


さて、今回の「ひとりごと」では、教育について少し書いてみたいと思います。

私は、教育というものは、とても恐ろしいところがあると考えています。

今日の実践教室のように、教育を行う中心となる人が何を信じ、何を伝えようとしているか。子どもたちはその影響を強く受けるからです。

たとえばもし私が、テスト結果や成績が優れている子が何より素晴らしいという教育観を持っていたら、子どもたちはその影響を受けます。おそらく子どもたちは、その教育観を達成するために、必死に努力するでしょう。

逆に、成績も大切ではあるけれど、それが最も重要なものではない。

みんな違って、みんないい。ナンバーワンにならなくてもいい。あなたたちひとり一人は、オンリーワンなのだから───という教育観で子どもたちを育てていけば、それが子どもたちにとって大切な価値観になっていくでしょう。

ただ私は、そういう教育観を超えたもっとプリミティブなものが私たち人間には存在しているのではないかと感じています。

原始的で、粗野でありながら、実は本質であるような、そういうものが存在しているように思います。

それは何かと言いますと「世のため人のためになる生き方をする」というものです。

一生懸命コツコツと学習を進めて、難関中学に合格し、やがては一流の大学に進学する。その目標を達成したあと、もし人のためになる生き方を選択できたら。その優秀な人材は、きっと多くの人が住みやすい社会を築いてくれるように思います。

もしそのような進路を歩まないにしても、子どもたちひとり一人が世のため人のためになる生き方を選択できたら、私たちにとってよりよい社会が生まれるのではないかと思うのです。


今、社会で起きている様々な問題。

これは多くが「エゴ」と「エゴ」の衝突であるように感じるのは私だけではないでしょう。

自分の利益と自分の存在を優先する「エゴ」。

「エゴ」は、私たちの成長を促す一面もありますが、度を超えると害にもなります。この「エゴ」の暴走を教育は助長することもあります。私が冒頭、教育には恐ろしいところもあるとコメントしたのは、そのためです。


私が小学生だったころ。
よく大型連休などに母の実家に遊びにいくと、よく祖母に言われました。

「明雄ちゃん、将来は世のため人のためになるような生き方をしなさい。自分のわがままばかり言っていたらいけないよ」

その当時の私は、その言葉の意味はわかりましたが、その本質が理解できたのはこの仕事を始めたときでした。

母の祖母は、仙台でずっと農業を営んでおり、高校はおろか大学も出てはおりませんでした。

祖母が私に宛てて書いた手紙の誤字を私が修正したこともあります。

「おばあちゃん、この字間違っているよ!」というと、「ああ、そうかい。そうなんだね。明雄ちゃんはお勉強がよくできるね」と、いつもやさしく褒めてくれました。

そんな祖母の土と自然と経験から得た教育観は、祖母から母へ、そして私へとつながっていて、私はそれを次の世代につなげようとしています。

このような何世代にもわたってつながっていっても、決して害はない教育観。

どんな時代でも色褪せないもの。
私はそういうものを大切にしていきたいな、と考えています。

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