【掌編小説】水先案内人エルゼ

「おじいさま、見てちょうだい!」
 波止場に停泊した船の甲板の上に立っていた娘が、車椅子に腰掛けた老人に朗らかな声を投げかける。
「ふふ、今回はエル・アルカサル・ミナトーレの港を越えて、もっと南へ行ったのよ。もうすごくって、市場なんか派手派手しい綺麗な絨毯と、すごくきつい匂いの香辛料がいっぱいで、あれ一粒で家が買えるそうね。こっそりくすねてこれば良かったわ」
 日に焼けた肌と、各国で仕入れてきたらしい布地を縫いつけた、まるで万国旗のような奇妙なワンピースに、すっかり海焼けして痛んでしまった金色の髪の娘、エルゼが船の甲板からひらりと飛び降りた。
「わしの教えた商人言葉は役に立ったかね?」
「もちろんよ。あっちの商人は洒落にならないくらいガメつくて。こっちは言葉をわからない、とタカをくくってたのかしら、相場の倍以上の値段ふっかけてきて、腹が立っちゃった」
 背中には特製のコンパスのついた望遠鏡と、日記やら辞書やらが放り込まれた袋がくくりつけられている。船に女は不吉、という常識にも負けず、世界の海を旅して回るこの娘と知り合ったのは、いつのことだっただろうか。
「東の国々はどうだったかい?」
 眩しげに目を細める老人のところまでかけてきて、独特の早口でエルゼは喋り続ける。
「最高よ。おじいさまも連れていってあげたいわ。すごいいい匂いのする原色でカラフルな花の咲きまくった丘とか、ものすごい賑やかしい市場とか……あっちの市場ってすごいのよ、人間より大きな魚がずらっと並んでるし、ありえないくらい綺麗な絨毯とかが普通に売られてるし。あ、これお土産よ。車椅子に飾るといいかなって」
 そして、背中の袋の中から、小さな銀色の鈴を取り出すと、本人の許可も得ないうちから早々にそれを車椅子の背中に結びつけて笑う。
「おや、不思議な音だ」
「もっともっと東にすんでるお坊さん達がお祈りの時に使ってる鈴なのよ、それ。ご利益ありそうじゃない?」
 潮の匂いがしみついた、しなやかな腕が伸びる。
「お前さんが無事帰ってきてくれるように、いつでもお祈りできるわけだね」
「おじいさまがずっと元気でいてくれるように、いつでもお祈りできるわ」
 見ると、その掌には自分にくれたおみやげと同じものが握られていた。
「お揃いね」
 年甲斐もなく照れてしまいそうになる。老人が微笑した。
「死んだ妻に嫉妬されるかな」
「おじいさまの奥様、素敵な人だったそうね。私も負けないようにしなきゃ」
 エルザが笑う。
「また、出発かい?」
「そうなの。今度はあちらの白い三角帆のに乗って行くわ。三角帆の船はスピードが出るから、いつもより早く帰ってこれると思うわ。おじいさまのお誕生日、来月だったかしら」
「ああ。けれど、気をつけていくんだよ。君が無事に帰ってきてくれるだけで、わしは嬉しいからね」
「もちろんよ。だって、私が帰ってくる場所は、ここだもの」
 しなやかな腕が車椅子に座る老人の身体に優しく回されて、自分の白い髭が揺れる。日に焼けた唇が、皺の多い額に優しく触れる。
「ふふ、じゃあ、行って来るわ。今度もまたお土産買ってくるから!」
「気をつけるんだよ、エルゼ」
 お喋りで闊達な、海を愛するかもめの如き、愛すべき娘。妻も一人息子も亡くした自分の元に、ある日突然何の紹介もなく航海術を習いに飛び込んで来た愛弟子。飛び魚みたいに忙しい娘だ、と笑いながら思う。早足で船へと駆けていく後ろ姿を見送りつつ、また来月まで少し寂しい日々が続くな、と目を細めるが、車椅子にくくりつけた鈴が、丸でその寂寞感を癒やしてくれるかのように、海からの爽やかな夏の風を受けて軽やかに鳴った。

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