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世界はコロナで時代の転換期を迎え、わたしは家族の病気で人生のリアルに直面している。

これは、私と家族の物語。

正直家族のリアルを公開することには葛藤も不安もあって、この記事も丸2日迷って公開したものの、すぐまた下書きに戻して出すか迷う…を何度も繰り返した。

それでもこんな風に赤裸々に語ろうと決めたのは、3つの理由があるからだった。

1)伝えることで、母の病気に対する選択肢と有益な情報を得る可能性を広げたい

家族がこういう状況になって、初めて自分ごとになったことがたくさんある。世の中は情報で溢れているのに、本当に必要な情報は簡単には手に入らなくて。だから母の命を救い、母の毎日を支えるだけの知識とあらゆる選択肢が欲しいと思った。自分から発信したら、思いもよらないところから色んなことを教えてくれる人がいるって信じている。

2)1人でも多くの人に病気や治療のことや、家族のリアルを知って欲しい

私は昨年の父の他界、今年の母の病気に対面して初めて知ること、決めなきゃいけないことがたくさんあった。人はこんな風に息を引き取るのだということも、看取った後の流れも、お葬式のリアルや不自由さも知らなかったし、調べてもイメージできないことだらけだった。そして今もまた私は人生で初めてのことに直面していて、それが少しでも次の誰かの役に立つならと思って書いている。

(父が他界した時、お葬式の不自由さについて感じたことはこちら

3)人生にはその時にしか残せない、リアルがあると知っている

わたしはどんな人の人生も泣けるほどに素晴らしいと信じている。人生を祝うプロデューサーとして、たくさんの人の人生ストーリーに触れてきたからこそ、人生にはその時にしか書けないリアルがあると知っている。だからわたしも綺麗に整えて書くんじゃなくて、今の、生の、感情剥き出しなログを残したいと思う。

コロナで私たちの世界は、何十年分も急速に時代が進んだと言われている。それと同時にある日突然訪れた家族の病気は、私の目の前の景色や毎日を急激に変えた。いつまでも続くと思ってた家族との時間が、終わりが来るかもしれないと突然強烈に意識することになったのだ。

人生は本当にいいことばかりじゃないのだと思い知らされる。

先週この記事で書いたように、母が検査を受けたクリニックで癌と診断された。さらっと検査結果説明の延長のような流れで「この腫瘍は悪性です。」と先生に言われた時、私は戸惑いや驚きよりも、スッと腹がすわった感覚だった。

うん、大丈夫。立ち向かおう。

ただ、それだけだった。

思えば父の時もそうだった。悲しみとか悔しさとかパニックとか、責めたり後悔する気持ちは一切なく、自分でも驚くほど冷静にすべてを受け入れ、状況とリスクを深く理解するように努め、一つ一つ家族に私からも説明して、みんなで力を合わせて向き合う日々だった。

「私ってこういう時に腹が座るタイプなんだな」と自分が一番驚いた。

二日後、紹介状を持って大きな病院に行き、母は正式な病名とステージの告知を受けた。さらに癌の場所的に切除をすると永久ストーマ造設が必要になるという説明だった。

そもそも「ストーマ」ってなに?

ストーマ(人工肛門、人工膀胱)とは、手術などで肛門や膀胱が使えなくなった人が、腹壁に人工的に作る排泄口のこと。つまり自力で排便や排尿ができないから、腸を一部だしてそこから外に出す。そんなことが身内に起こるなんて想像もしていなかった。

今、切除手術すれば根治する可能性が高い。化学療法などを試して延命しても切除しなければ余命は3年ほどと言われた。

もちろん手術や化学療法、放射線療法以外にも、温熱治療や東洋医学など、他にも治療の選択肢があることは、ここ数日であらゆる資料を読みあさって、周りの経験者に聞いて知っていたけど…

それでも私の心は「今すぐ手術」の一択だった。根治の可能性にかけたかったから。

でも、こればかりは本人の意思。

どう生きたいかは家族が決めるものじゃなくて、本人がどうしたいかが優先されるべきだと思ってる。

母は先生の説明を聞いて、癌であることよりもストーマを装着しなくてはいけないことに相当ショックを受けていた。これまでのような日常が送れなくなること、自分が障害者になることへの抵抗からか、受け入れ難くて、しばらく項垂れていた。

私の母は本当に気が優しいというか、謙虚というか、常に一歩引いて我を出さず、誰に対しても腰が低い。いつだって人に気を遣い、控えめで、「すみません」「ありがとうございます」を何度も何度も言う人。

(わたしが母の日に渡した手紙にもこう書いていた)

我が家は典型的な亭主関白な家庭で、仕事で帰りが遅いお父さんを、お母さんはいつもちゃんと起きて待っていて、どんなに自分が寝るのが遅い日も、翌朝は必ず起きて朝ごはんやお弁当を作ってくれたね。
小さい頃からお母さんが弱音を吐いたり、愚痴を言うのを聞いたことがなくて、決して表に出るタイプじゃなくて、三歩後ろを歩きながら支える優しさを、娘ながらいつも尊敬していました。

病状説明の日、一度は「手術してください」と母は言ったものの、その声は前向きに選択したという感じではなかった。

「では、そのままいくつか検査をするので、外でお待ちください」と言われて診察室を出た時、母を椅子に座らせ、私はかがみ込んで母の手を握ってこう聞いた。

「お母さん、本当はどうしたい?」

母は俯いて、肩を震わせ、静かに涙を流した。

手術しない方法を選んでもいいよ、と伝えた。

セカンドオピニオンすることもできるし、病院を変えて再検査してもいい。本当に嫌だったら、延命治療にしてもいい。

それでも私は生きてて欲しい。根治する可能性があるならそれに賭けてみたい。わたし、たくさん調べるよ。なんでもするよ。ストーマをつけて日常を送ってる人もいるみたいだし、何もかも諦めなきゃいけないわけじゃない。だから、生きて欲しい。

これはわたしの心の声。

結局何も言わずに、手を握って母の言葉を待つしかできなかった。

母がポロポロと泣く姿は、見てるだけで辛かった。

その後、栄養士さんやリハビリの先生からいろんな確認を受け、「何かわからないこと、質問はありますか?」と聞かれた時、母は小さな声で言った。

「今は、ちょっとなにも考えられないです…」

私はその言葉にそりゃそうだよね、とハッとした。健康だと思っていた自分にこの1週間でドドッと押し寄せたいろんなことで未来が一変しちゃったんだから。今、何もかもを決めることなんてできないよね。現実を受け入れることに精一杯のはずで、まだ頭と心が追いつかないのも当然。

父が他界して半年。一人になった悲しみに暮れ、落ち込んで、自分のためだけにご飯を作る気にもならなくて、外出する気にもなれなくて。コロナが落ち着いてやっと娘や孫のいる関東に出かける予定を立てようかと話していた矢先、ふと受けた検査で癌がわかって、あれよあれよと悪い知らせを受け、突然日常を送れなくなるかもしれないと言われ。その上ストーマをつけることになるかもしれないなんて・・・

気持ちが弱っている母が受け止めるには残酷すぎる現実だった。

その夜、わたしが作ったご飯を食べながら母はぼそっと言った。

「こんなことになると思わなかったな。おばあちゃん(私の祖母)みたいに90歳くらいまで何もなく生きて、老衰で死ぬもんだと思ってた。お父さんが、早く来いって呼びに来たのかもね。」

そんな弱気な発言に、そんなこと言わないで!と言いかけて、飲み込んだ。もうどう声かけてあげたらいいのかわからなかった。

それでも全てがリアルすぎて、目を背けられないし、背けたくない。

冒頭に書いたように、私がここまで赤裸々に書くのは色んな知識や情報を得たいから。そして一人でも多くの人に知ってほしいと思ったから。

皆さんはこのマークが何を意味するご存知ですか?

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恥ずかしながら、私はトイレや電車の優先座席にあるこのサインの意味を知らなかった。そしてこれまで興味を持って調べたこともなかった。

これは、オストメイトマークといいます。

病気や障害などが原因で、自力で排便や排尿ができない方が、便や尿の排泄口としてつける人工肛門・人工膀胱のことを総称してストーマといいます。そしてこのストーマを持っている人のことを『オストメイト』と呼びます。

多目的トイレにシャワーのようなものがついてるのは、オストメイトの方が楽な姿勢で処理をするためのものだったなんて知らなかった。

オストメイトについてもっと知りたい、教えてほしい。

この1週間でストーマやオストメイトについて色々調べ、本を取り寄せて、世の中知らないことだらけだと痛感した。ストーマについてはこの動画が一番わかりやすかった。

一人でも多くの人が知ることで救われる人がいたり、社会の理解が進むと思ってどうか見てみてほしい。

家族がこういう状況になって、わたしはあらゆることが突然自分ごとになった。

だから母の命を救い、母の毎日を支えるだけの知識と情報が今一番欲しい。

どうか身近な人がストーマを装着して生活してる方、お話を聞かせてもらえませんか?家族はどのようにサポートすればいいんでしょうか?身体的にも精神的にも。そして本人の不安をどう解消してあげたらいいんでしょう?

私は母の人生も、家族の日常も、小さな幸せもどれも諦めたくない。

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でも、すでに救いもあった。

世界はコロナで急速に時代が変化した。私はこの変化のタイミングで家族の病気と向き合うことになったことに思わず感謝もした。

一つはニュージーランドから帰国したその日から外出自粛になって働き方を大幅に変えていたこと。フルリモートにシフトしていたことで、母の状況を聞いて、即仕事を調整して関西の実家に戻ることができた。そして母の通院、手術、入院期間の約1ヶ月、そばで看病しながら実家で仕事をすることを迷いなく決められた。

二つめは2ヶ月のニュージーランドでの暮らしと、その後が自宅勤務になったことで、朝昼晩の三食自炊が楽しくなっていたこと。これまでは仕事が忙しくて外食がほとんどだったわたしが、毎日母にご飯を作ってあげられている。

だから悪いことや辛いことばかりじゃなくて、目の前のことを受け入れて、前に進むしかない。

いま、わたしができることを。

これが急速に変化する世界で、今わたしが直面している人生のリアル。

きっと明日はまた違う景色が見えるんだろう。

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