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今、ワタシが見えてるせかい。

小さい頃、実家で一人留守番するのが大嫌いだった。

マンションだから廊下で人が通ると物音がして、その度にビクビク。テレビをつけていないと眠れないほどだった。

母の入院と手術を支えるために実家に来て2週間。

一人で実家にいて何かあったら駆け付けられるようにお酒も飲まず、自宅で携帯を握り締めながら眠る日々。中々寝付けず、昼夜が反転しつつある。

上京して以来、10年以上車なんて旅先でしかほぼ運転してない私が毎日車に乗る。

毎朝仏壇に手を合わせ、片道30分運転をして病院に荷物を届け、区役所で諸々の手続きをし、近くのスーパーで買い物をする。

ふと、まるで父の看病を十数年と続けた母の日常を疑似体験しているようだと思った。

こんな日々をお母さんは過ごしてたんだなぁー、一人で。

そして昨日、術後の病理検査結果を主治医から告げられた。

コロナの影響もあって手術後、一切面会ができなかった母と検査結果を聞くために10分間だけ会うことができた。

久々に会った母が、私に向かって小さく手をふる。

わたしだけ先に先生から聞いていた内容を、母と並んでもう一度説明を受ける。

話を終えて少しだけ二人で廊下を歩いた。

思わず母を抱きしめたら、小さな声で「心配かけてごめんね」と呟いた。

じゃあね、と言って、とぼとぼと点滴を押しながら一人で歩いて病室に戻る母の背中が小さくて、小さくて...

しばらく病院のソファに座って呆然とした。

まっすぐ家に帰る気になれなくて、帰り道にスタバに立ち寄り、閉店時間まで何気なく買った小説を読んだ。

そしてぼーっと昔の写真を見返す。

ふと、目に止まった写真。

あぁ、まさにこんな感じだ。

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確か、3年前に行った、「そこまでやるか展」で見たアート。

見えそうで見えない。抜けれそうで抜けられない。

まるで蚕の中みたいだ。

でも明るい方向は見えている。

透けて遠くの方に。

ふと、自分が決めた仕事が今あって良かったなと思った。

病院に見舞いに行けるわけでもないけど、数日おきに必要なものと手紙を届ける。

夜眠れないと言うからホットマスクを買ってみたり、実家の引き出しから全然使われていないウォークマンを引っ張り出して母の好きな曲をせっせと購入して取り込んでみたり。暇つぶしになるかも、と私が持ってきた何冊かの小説をカバンにそっと入れた。

できることはそれくらいで、何かあったらすぐ行くよ、と言える距離にいてあげたいと思うからいるのだけど。

それでも仕事せずに一人で実家にいたら、いろんなことを考えて思い詰めていたかもしれない。

やりたいことがあって、届けたいことがあって、待ってくれている人がいる。毎日起きて、向かいたい仕事がある。

それは幸せなことだ。

そして、もし自分が決めてない仕事に追われる今を過ごしていたら、きっと誰かのせいにしたり、「家族がこんな状況なのに」って自己嫌悪に陥っていたかもしれない。

今年から働くスタイルを変えると決めたこと、帰国後コロナの影響で完全リモートの仕事に切り替わったこと、自分本位にやりたいことを追求しようとある意味いろんなものを捨てたこと。

今、自分がやると決めた仕事しか手元にないことは、幸せなことだ。

だから、今の自分、今の状況がベストだとは言えないけど、これまでの人生の全てがあって今があるのだとは思えている。

つまりね、自己肯定はできてないけど、人生肯定はできているんだよね。

誰がなんと言おうと、今自分にとってはこれがいいと思えていること。

多くを求めず、今あるものに、今ここに在ることを見つめる。

それが今、ワタシが見えているせかい。

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今が一番、家族と近くにいるかもしれないなぁ。

物理的にも、精神的にも。

(Photo by Ayato Ozawa)

これは、私と家族のリアルストーリー▼

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