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【森の家②】〜限界集落に住を求めて〜

八月の昼下がり、古い民家の玄関先に雑種犬が腰をおろしている。犬はくつろいでいるが、その鼻は家の前の森から漂う複雑な匂いを嗅ぎ取っている。その耳は辺りに広がる山々から雑多な音を拾い続ける。日に数回だけ、集落の人や郵便屋さんが近くを通りがかったりすると、首を伸ばし、耳を立て、そちらの様子をじっとうかがう。

犬は時々、どこかへ出かける。近所の森の腐葉土の下に小さな獲物を見つけに行ったか、裏の藪のミツバチの巣箱を巡回ついでに嗅ぎに行ったか、何をしてきたかは本人にしか分からない。犬はしばらくして戻ってくると、誰に言われたわけでもないのに、また玄関前のコンクリートに静かに腰を落ち着ける。そして、うつらうつらしながら、家の番を続ける。

紀伊半島の山々の奥、限界集落で暮らし始めた友人を初めて訪ねたのは、2020年の夏、我が家の雑種犬がちょうど2歳を迎えた頃だった。あの日から3年半、私はずっと「あの時の風景」を探し求めてきた。山があり、木々があり、玄関先に犬がいて、逆に言うと、それ以外のガチャガチャしたものが何にもないような場所。日本に暮らす9割以上の人が何の興味も示さないような”物件”をコツコツと探し続けてきた。そして数年に及んだ物件探しも、いよいよ出口に向かいつつある。

地方で過疎化が進んでいること、空き家が急増していることは、もう数十年も前から言われている誰もが知る事実である。ただ、過疎地に移り住もうとしたり、住みたい空き家を見つけようとすると、実際的なこととして、どこからどう手をつければいいか分からないことがたくさんあった。

もちろん近年では移住者の取り込みに熱心な地方自治体もあり、地域おこし協力隊や空き家バンク制度など、移住のハードルを下げる取り組みはされている。支援も充実してきているが、残念ながら私は、そうした制度にはあまり興味が湧かなかった。地域の活性化に力を入れる自治体は、できれば避けたいとさえ思っていた。ひと気のない場所を求めて移り住もうというときに、人を集めることに熱心な賑やかな場所を選ぶというのは、どこか矛盾しているように思えたからだ。

私が訪ねた友人(当時30代後半)も、移住制度とは無関係にその地に辿り着いていた。田舎暮らしに憧れて・・・というよりは、仕事(ご本人は仏画絵師であり農業関係に広いネットワークがある)などの都合からいろいろ検討した結果、高野山から遠くない山の中の集落に、曰く「まあまあ気に入った家」を見つけたとのことだった。

家賃は1ヶ月1万円。それまで暮らしていた別の田舎に比べるとかなり割高だったようだが、山水があり、薪もあり、安い(または無料の)野菜が手に入り、生活費がほとんどかからないので、「全然切り詰めたりしてないけど、月に5万円もあれば十分暮らしていける」とのことだった。彼女は何でもできてしまう人なので、山の中への移住に際して、自治体の支援や後押しは特に必要なかったのだろう。

そんなわけで彼女は、何をしようと、いつ出て行こうと、何一つ気兼ねする必要のない自由な暮らしを手に入れていた。


いただきものの大量のキュウリは漬物となって朝の食卓へ


ただ実際に物件探しを始めてみると、縁もゆかりもない集落の土地や畑や空き家というのは、見つけ出すのも、借りるのも、簡単ではないことが分かってきた。

まず、そうした過疎地の物件は資産価値がほとんどないので不動産業者の取扱いがなく(非常に少ない)、物件探しから持ち主の特定、賃貸や売買の交渉まで、自分なりに知恵を絞って、各方面からの人脈を伝い、何とかするしかないことが分かった。

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