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大学は鍋をする場所ではないし、自由を学ぶ場所でもない。(「大学院のこと」番外編)

アカデミアに疑問を投げかけるシリーズ『大学院のこと』の第6話目を書いている最中に、奇妙なニュースを目にした。「大学の授業中に鍋をする学生が現れた」というものである。

事の詳細や背景は正確には分からないが、ネットを読む限りでは、以下のようなことらしい。

大阪公立大学のポピュラー音楽研究者の教授が、「大学は学生が自発的に考えるべき」で迷惑をかけなければ何をしてもよいとし「自分の授業では教室で鍋をやってもいい」と許可。昨年12月に実際に教室で鍋をやっている画像をSNSに投稿し、現在も話題となっている。

東スポWEB

以前から授業中の鍋を許可しているという増田さんは、「ようやくほんまに鍋やってくれた学生(一回生)が現れました」とコメント。「大学とはこんなふうに手間暇かけて自由であることのディテールを確認する空間であるべき」との見解を示し、学生を称賛した。

Jcastニュース

誰がどこで鍋をやろうと構わないが、鍋が行われた場所が大学の教室(授業中)であったこと、また許可した教授がSNSでその一件を取り上げて称賛しているということから、『大学院のこと』の番外編として本件について書くことにした。

私はこれまで、高い犠牲を払って大学院に進んだ者として、アカデミアの現状に対する深い失望を書いてきたが、もしも香港大学の教室で「自由の表現手段として授業中に鍋を食べる学生と、それを容認する教授」に出会っていたとしたら、私はその事態を「残念な実例」として、本シリーズで取り上げなければならなかっただろう。

結論から先に言っておくと、大学は鍋をする場所ではない。自由を学ぶ場所でもない。大学は、自由に生きていく力を蓄えるために一時的な不自由を受け入れて勉学に励む場所である。



鍋は自宅か鍋料理屋でやればいい

こんなことを書くのは悲しすぎるが、鍋は自宅か鍋料理屋でやればいいと思う。あるいはどこかの河川敷か山小屋なんかでやってもいい。ただし大学の授業中にやるべきことではない。

私は鍋料理屋で勉強はしない。なぜなら鍋料理屋には鍋を食べにいくのであって、勉強をしにいくわけではないからである。たとえ鍋料理屋の店主が、「自由にしてください、勉強してもいいですよ」と言っていても、勉強せずに鍋を食べる。鍋をつつくという行為、みんなで鍋を囲む時間を最大限楽しみたい。なぜなら、せっかく鍋を食べにきているのだから、そのために足を運び、時間を作り、お金まで払っているのに、鍋もそこそこに(あるいは片手間で)勉強をするなんて、あまりに勿体無いからだ。

鍋料理屋に求めるものは、美味しい鍋や、鍋を楽しく食べられる環境であって、勉強をする自由ではない。勉強したければ、自宅でもカフェでも図書館でも、より適した場所はいくらでもある。

大学に求めるものは、質の高い授業であって、自由を学ぶために鍋(その他好きなこと)を許可してもらうことではない。

大学の授業料はとても高い。以前の記事では、コロンビア大学のMBAコースに合格したにもかかわらず学費が高すぎて進学を断念した友人の話にも触れたが、大学(大学院)は鍋料理屋とは違い、人によっては借金を背負わなければならないほどお金のかかる場所である。

学びたくても断念せざるを得ない人、多額の借金を背負って進学する人、そして私が香港大学に進んだ時のように、仕事を中断して時間を作り貯金を大きく切り崩しながら学びにきている人たちがいる。

そこへきて、大学で鍋をして自由とは何かを学びましょう?などと、教授が声を大にして訴えているのだとしたら、やはりとても残念だ。


大学は”自由”を押し付けてはいけない

私は授業中にわざわざ鍋をしようとは考えない。一方で、なぜこの学生が鍋をしたのか、理由はだいたい想像がつく。

この学生は、先生にウケたくて鍋をやった、のではないか。先生の期待を読んで行動する、いわゆる「良い子」にありがちな行いとして。

先生と学生のやりとりは、心理的なやりとりも含めるとおおよそ以下のようなものだったのではないかと想像する。

学生:「先生、大学では何をしたらいいのでしょうか」
先生:「君たち、大学とは自由な空間だ。自由に振る舞いなさい」
学生:「自由って何ですか?どうすればいいのでしょうか?」
先生:「自由とは、授業中に何をしてもいいということだ」
学生:「そんなことを言われても、何をしたらいいか分かりません」
先生:「なんでもいいんだ。たとえば鍋をやったっていいんだぞ」
学生:「鍋ですか?」
先生:「そうだ。自由とはそういうものだ」
学生:「はい、では鍋をやります!」

学生は先生の言いつけ通り、授業中に鍋を食べてアピール。

先生:「よくやった。君は私の話をちゃんと聞いて、自由を実践することができた。良い学生の一例として、先生のSNSで特別に紹介しよう」
学生:やった。これで先生に名前と顔を覚えてもらえたぞ。

茶番である。

日本の学校教育ではよく、学生や生徒に「自由」や「個性」を求めることがあるが、そもそも自由や個性といったものは、求められてどうこうするものではない。「自由にしなさい!」と言って与えられたり、実践したりするものではなく、自由とは本来的に備わっているものである。

私は短大と大学をアメリカで、大学院を香港で過ごしたが、授業中に「自由にしなさい」とか「好きなことをしなさい」と言われたことは、記憶の限り一度もない。なぜなら学生たちは、学生でいる前に一人の人間としてそもそもが自由であり、あとはその自由に責任を持ってどう折り合いをつけて生きていくかということだけが問題となっていたからである。

学校に進むか、進まないか、何を学ぶか、学ばないか、授業に出るか、出ないか、は本人の自由である。その中で、学校に進み授業に出て学ぶことを選択した以上、その中でベストを尽くすのは当然のこととされていた。

授業中の入退室や飲食が許されるかどうか、トイレに行っていいかといった瑣末なことを確認する人は、先生であれ学生であれ、誰もいなかったと記憶している。

授業中にトイレに行きたくなったら、行ってスッキリしてきた方が授業に集中できるので、そうすればいいだけの話である。ただし、授業中にトイレに行くと授業を一部聞き逃すことになり、また周囲の学生の邪魔になることもあるので、基本的には皆んなトイレに抜けなくて済むように準備して授業に臨んでいた。

授業中に喉が乾けば、お茶でもコーヒーでもジュースでも、持ってきたものを好きなように飲んでいたが、コップや水筒には蓋が付いたものを選んでいた。ひっくり返してこぼしたりすると、自分も困るし、周囲にも迷惑がかかるからだ。

授業の始めにサンドウィッチを食べている学生がいても、それがいいとも悪いとも誰も何も言わなかったし、先生も興味さえ示さなかった。忙しくて食べる時間がなかったのであれば、ささっと胃袋を満たして授業に集中すればよいのだし、実害が及ばない限り、他人が何をしようと知ったことではない、というのが共通した態度だった。

ただし、誰も教室で火を起こしたり、肉や野菜を机に広げ、鍋をぐらぐらさせながら食べたりするような人はいなかった。なぜならそのような行為は、授業の邪魔になることはあっても助けになることはないからである。

そんなことはみんな自分の頭で考えて合理的に判断し、自分の責任において行動していた。もちろん、人によって許容の範囲は違うので、チップスがバリバリ音を立ててうるさいだとか、ナチョスは匂いが籠るからやめて欲しいだとか、学生同士または学生と先生の間での個別案件への調整は常時あった。しかし少なくとも先生から、「授業中に、授業とは無関係なことをして自由を発揮しなさい」などというおかしな要求をされたことは一度もなかった。

先生から「自由を実践しなさい。たとえば鍋とか」と言われて、その言葉通り授業中に鍋をする行為は、まったく自由とは関係がない。それは権力者による”自由”の押し付けでしかない。


自由とはいったい何なのか

それでは自由とは、いったい何なのか?

私たちは本来的には自由であり、自由の中に生まれ落ちてくるのだと私は考えている。ただし、自由とはあまりに漠然として、扱いが難しく、危険でもあるので、私たちは家庭や地域や学校などの”不自由な枠組み”の中に身を置くことで、自らを保護しているのである。

小さい子どもが保護者の目の届く範囲内にいる、すなわち徹底した監視下という不自由の中にいるのはそのためである。義務教育を終えたあとも、ほとんどの若者が高校へ進学するのは、自由の海へ漕ぎ出す準備がまだできていないからである。

私たちは”枠組み”の中で学習し、自力を付け、成長していく過程で、徐々に保護を必要としなくなっていく。そして無限に広がる自由の海へと放り出されていくのだ。自由とは、そういうものである。

そこへきて、わざわざ大学に行って「自由を学ぼう」などというのは、ちゃんちゃらおかしい。自由になりたければ、あなたは一刻も早く、大学を辞めるべきである。

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