コスパ最高!の先にあるもの
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コスパ最高!の先にあるもの

中村安希

お肉配りをしていたある日、いろいろ面倒になってきて、いっそのことSNSで告知してしまおうかと話し合ったことがありました。例えば、

「次の日曜日の午後1時からどこそこの公園で鹿肉を配布します。冷凍肉ひとり1〜2キロ。先着10名。なくなり次第終了」

といった形で。

とくに犬用の肉はこんな感じで配ったほうが手っ取り早いと思いました。ワンちゃんを飼っている人ひとりひとりに個別に配布するやり方は、ちょっと面倒な時もある。いかがですかと問い合わせてから、自宅までお届けしたり、日時を決めて取りに来てもらったり、散歩の時に持っていって手渡したり。それでも追いつかないくらい続けざまに鹿が獲れると、冷凍庫もいよいよ許容量の限界に近づいて、ついテンパって考えてしまうんです。一気に肉を放出するには、もうSNSでの告知しかない!って。

* 贈り物 ≠ 0円の物

SNSで告知すれば、欲しい人は取りに来るでしょうし、肉は短時間で効率よくはけていくと思います。ただ、このアイデアは何度か頭をかすめたものの、ついに一度も実行されず今に至ります。なぜなら、このやり方だと配ったお肉は「贈り物」ではなく「タダの物」になってしまうから。どちらも無料の肉だし、何が違うのかと思われるかもしれませんが、その二つは似て非なるものです。

タダの物は0円ですが、贈り物は0円ではありません。なぜなら贈り物は、値段という概念の外側にしか存在していないから。0円も含めた「いくら」という数値では表現しえない。

そして私は、苦労して精肉した鹿肉を0円で配りたいとは思っていません。とまあ、そういう自分のエゴを「お肉配り」を通して突きつけられたとも言えます。栗田さんもそうだったと思います。彼も0円で配っていたわけではなく、あくまで贈りたかったんだと思うんですね。

* 栗田さんのお肉外交?

栗田さんから「お肉配り」を指令された当初は、なぜそんなことをしなくちゃいけないのか、なぜ彼はそんなことを8年間も続けてきたのか、本当に意味不明すぎて悩みました。同居の姉とも「何なんだろう」ってしょっちゅう話し合いました。時に面白おかしく、時にイライラしながら考えた。そしてしばらく経った頃から、私たちは栗田さんのお肉配りを「お肉外交」と呼ぶようになりました。栗田さんにとってお肉は、近隣住民や社会と関わるための、ある種の「外交手段」だったのではないかと。

栗田さんのお肉外交は、実は贈与の本質をよく表しています。なぜなら贈与は売買とは違い、お金ではなく「人との関わり」を要求するものだから。だから贈与は、時として大変「うっとおしい」し「煩わしい」(笑)。そういうものを引き受けたくないから、つまりは人と関わるのが面倒だから、私たちはお金を用意して「売買」という形で関係から逃れるわけです。

ここで話を戻すと、不特定多数に向かって「お肉欲しい人あつまれ〜」とアナウンスして配るお肉は、やっぱり贈り物ではないと思います。駅前で配られているティッシュと同じ。匿名性が高く、誰が誰に贈ったかを問わない、「人としての関わり」を要求しません。そしておそらく、そういうやり方だと、関わりたくないけど肉だけ欲しい、という人が集まってくることになる気がします。実は、栗田さんが生前に一番警戒していたのもそういう人たちでした。

* コスパ最高!の延長線上にある「タダの物」

手渡しから宅急便まで、いろんな手段でお肉を配ってきましたが、欲しいという人なら誰彼構わず無制限に配ってきたわけではありませんでした。中には、一度、または何度か肉を贈ったのちに、なんとなく違和感を覚えて「やっぱりもう贈るのはやめよう」と思い至った人も、実は数人いました。お肉をください、もっと欲しいです、と言ってもらっていたにも関わらず……。ある種の疲労感を覚えつつ姉に愚痴ったのを覚えています。

「うちは都合のいいお肉ATMじゃないから」と。

お肉をもらって欲しいと思う人、そうでない人の分岐点がどこにあったのかというと、お肉が贈り物ではなく、受取手にとって限りなく「タダの物」になった時点にありました。つまり相手から、

あなたと関わりたいとは思わないけど、タダだから肉はもらいます

という態度を感じ取った時。

そういう人にとっての関心事はどこまでもコストパフォーマンスです。コスト(人との関係、金銭的負担)をいかに減らして、手にする質と量を最大化するか。損か、得か。お値打ち感があるかどうか。そういうマインドセットで見るなら、匿名的に配られる無料の肉は、言うまでもなくコスパ最高の商品です。

もしもSNSで告知して肉を配ったとしたら、取りに来た人が「受け取る量」をめぐって揉め事を起こす可能性すらあります。コスパ重視で肉を取りに来た人は、同じ0円の肉を誰かが少しでも自分より多く受け取った時に、損をしたと感じるかもしれないからです。(* これに似た不和・不穏は経験しました)

* 人と関わることはコストであり、コストではない

栗田さんのところには、肉を分けて欲しい、という人が時々訪ねてきていました。基本的には分けてあげていましたが、「他所で買うたらええやんか」と追い返すことも実はあって、最初の頃は何が基準となって「もらえる、もらえない」が決まるのか分からず、混乱したのを覚えています。

でもそうした中で栗田さんは、「お肉ください」と突然人づてに連絡して近づいていった私に、結果として大量の肉を分けてくれたことになります。手ぶらだった私とは違い、高価な心付けや返礼を持って訪ねてきていた人たちを差し置いて。栗田さんの活動を絶賛しに来た若くて可愛い女の子たちも差し置いて。手ぶらでやってくる小汚いオバチャンの私に、これは俺とあんたの肉や、とまで言っていた。

なんでやねん……

それが不思議でならなかったのですが、今ならわかります。栗田さんが私に肉を贈った訳が。それは人として関わったかどうか、でした。

ただ、勘違いされたくないのは、私は肉を手に入れるために(肉を贈られたいがために)面倒な人間関係をイヤイヤ引き受けていたわけではないということ。栗田さんに何かしら面白いところがあって、感覚としては一緒に遊んでいたという感じでした。不満や改善点があれば遠慮せず伝えられる仲でしたし、良くも悪くも人としての付き合いがあって、解体やお肉配りはその関係の一部分でしかなかったと思います。

栗田さんから肉の提供を拒まれた人たちにとって、栗田さんとの付き合いは、できる限り削減したい「コスト」でした。その思惑が透けて見えた瞬間に、彼は肉の贈与から(肉を分け与えることから)スッと手を引いていったのでした。

私にとって栗田さんとの付き合いは「コスト」ではありませんでした。よって鹿肉はその対価などではなく、ましてやその極致である「0円の肉」たりえるはずもなく、最後の最後まで、それは贈り物でした。


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