海を泳ぐ
中学生以下は無料だったので、よく美術館に行った。
タダで、長くいられる避難場所。最初はそれだけのことだった。
セーラー服、眼鏡の冴えない中学生が、毎週のように平日の午前中からやってきても、受付のお姉さんは何も言わなかった。途中から学生証を確かめることもしなくなった。やさしさだったのかもしれないし、ただの無関心だったのかもしれない。
飾られている絵画の善し悪しは、ピンとこなかった。ぶっちゃけ、ツイッターやインスタグラムで流れてくる上手なイラストのほうが、素直にかっこいいと思えた。
静かな館内で、立ち尽くす。海のど真ん中に放り出されたような気分だった。孤独で、寄る辺なく、いまにも溺れそうな――これじゃ、学校にいたときと同じだ。あそこから逃げてきた意味がない。
こうやって美術館の壁に掛かるのには、理由があるはずだ。権威とか何だとかくだらないものであっても、理由は。
観た絵について、図書館で調べた。
画家の来歴。絵に篭められた技術的、精神的な意図。描かれた当時の絵画の潮流――その中で、個々の作品がどう位置づけられるか。
知識は、アイテムであり、スキルだった。しがみつく浮き輪、行き先を示すコンパス、疲れない泳ぎ方――それらを入手するたびに、海を往ける範囲が広がった。
テレビの「三分クッキング」みたいに、途中をすっとばして「こちらが勉強して受けたテストの結果です」となればいいのに――と、ずっと思っていた。途中が楽しいのは初めてだった。
勉強って、本当は楽しいものなのだと知った。
無事、高校生になってから初めて、美術館に行った。
受付のお姉さんは「有料ですが、よろしいですか」と訊いてきた。
わたしは「はい」と答えた。
お姉さんは微笑んだ。あの中学生が、避難場所でなく「来たい場所」として来たことを喜んでくれたのかもしれないし、ただの営業スマイルだったのかもしれない。
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