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装飾写本:「本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」_20230309

卒論の今後の課題として装飾写本を調べるというのがあり、細々本を読んでいる中見つけた、練馬区立美術館で開催中の「本と絵画の800年 吉野石膏所蔵の貴重書と絵画コレクション」(会期:2/26~4/16)。以前「日本の中のマネ ―出会い、120年のイメージ―」で初めて訪れたんですが、こじんまりとして良い美術館です。果てしなく遠いのが難点ですが。

ちまちまとまとめていたものと今回の展示会の内容を併せながら、装飾写本について、まとめたいと思います。


写本とは

 写本(manuscript)とはラテン語の「手による(manu)書物(scriptus)」に由来し、文字通り人の手で一文字ずつ書かれた本を指す。写本に描かれる挿絵は細密画(ミニアチュール:仏miniature)などと呼ばれるが、元々はラテン語の「光を投射する(illuminare)」からイルミナシオンと呼ばれていた。日本語では装飾写本や彩飾写本、英語ではmanuscript illumination、フランス語ではenluminureと記される。
 元々言葉を記す際に使われていたのは、エジプト産の葦を用いたパピルスであり、これは巻子本(roll)の形態を取っていた。しかし『博物誌』を著したプリニウスによると、エジプトのアレクサンドリアと小アジアの都市ペルガモンの争いによって、中世写本に使用される羊皮紙が6世紀頃に誕生する。

プトレマイオス王とエウメネス王が図書館のことで敵対関係にあったとき、プトレマイオスがパピルスの輸出を抑えたときペルガモンで羊皮紙が発明された。そしてその後人類の不滅がそれにかかっている物質の使用が無差別に普及していった。

『プリニウスの博物誌』第13巻21 578頁。

 羊皮紙はパーチメントやヴェラムと呼ばれ、何の動物の皮で作られるかによってその呼び名は変化するが、現在では皮の種類に関係なくパーチメントと称されることが多い。このパーチメントの語源はペルガモンだとされている。またこの時にパピルスの巻子本では持ち運びが不便であることから、羊皮紙の冊子本(codex)へと代わり、現在私たちが手にする本と同様の形態となった。

企画展では実際に山羊・羊・仔牛で作られた羊皮紙の肌触りを確認することができる

写本の歴史

 現在確認される最も古い写本は4世紀のものと考えられるシナイ山の聖カタリナ修道院にて発見されたシナイ写本であり、ネット上で確認することができる。(Codex Sinaiticus)また同時代と考えられるものにはバチカン写本、アレクサダンドリア写本などがあり、どれも文字がメインに書かれ簡素な作りとなっている。これらの写本はギリシア語聖書写本だが、5世紀には『ウェルギリウス・ウァティカヌス』(ヴァチカン図書館蔵、420年頃)がローマで制作され、『農耕詩』や『アエネイス』を含め50図ほどの挿絵が現存している。なお当時は280ページほどの書籍であったとされる。さらに6世紀半ばにアンティオキアで制作されたとする現在の旧約聖書とは相違が見られる『ウィーン創世記』(ウィーン国立博物館)や、三大ケルト装飾写本と呼ばれる『ダロウの書』(ダブリン・トリニティカレッジ図書館蔵、680年頃)、『リンディスファーンの書』(7~8世紀)、『ケルズの書』(800年頃)がそれぞれ修道院にて発見されている。ケルト写本はケルト人の流麗な渦巻きやゲルマン人の鳥獣が複雑に絡み合う組紐装飾などが組み合わさっていることが特徴的である。またイベリア半島では『ベアトゥス黙示録註解書』など10世紀から13世紀にかけてモサラベ様式からロマネスク様式に移行する際に多く写本が制作された。

 11世紀まで異民族の侵略に晒されていたが平和を取り戻しつつあり、また温暖化気候と相まって大開墾運動が始まるヨーロッパでは、その頃からモンテ・カシーノ、クリュニー、ザンクト・ガレン、フルリー、リンディスファーンなど人里離れた大修道院で写本制作が始まる。ゆっくりとしたペースで年3,4冊制作されていたようで、王家以外の写本では金などは使用されていなかった。「聖ベネディクトの戒律」を厳密に守るシトー会では彩飾自体を禁止していたことや、また写本画家は修道院の吹きさらしの回廊で作業していたために、金箔を扱うのが難しかったことが挙げられる。(これに関して、アナール学派のル・ゴフが時代考証を行ったウンベルト・エーコ『薔薇の名前』を見ると、写本室など当時の姿を確認することができるらしい。もう一度見返したい。)

 12世紀になると、修道士が合間に作業を行い制作するスピードでは対応すべき写本の量が追いつかなくなり、修道院は俗人の文字を書く写字生を雇い始める。そして13世紀になって都市に大聖堂付属学校や大学が設立し始めると、写本需要は修道院の外を出て、世俗の書籍工房が誕生し、学生の教科書を制作するようになった。写本は受注生産であり、この頃の写字生は数種類の書体を書き分けることができ、どの書体で書籍を制作するか選ぶ宣伝用のポスターも多数発見されている。写字生として現在知られている人はあまりいないが、写本に署名があるものも多く残っており、女性もかなりの数いたとされている。さらに14世紀、15世紀には大きな大学町や商業都市には書店が並び、書籍店に勤める職人写字生は出来高払いのため、時には1週間で1冊の時禱書を仕上げることもあったようである。

 大学が設立され、学生のために多くの写本を制作する必要に迫られると、ペシア(分冊:Pecia)という制度が発達した。これは大学から原本貸出商(stationnaire)に教科書を貸し出して貸出商がまず写して大学に返却する。そしてその1冊を分冊にして貸し出すシステムである。教科書を写したい学生は写字生を雇い(もしくは自分で)、お金を出して分冊になったものを1つ借り、写して返却する。1つの教科書が20冊に分冊されている場合には、20人が一度に写すことができ、大体1週間の貸し出しで20週すれば20冊分が写し終わる計算である。これにより効率よく写本を量産することができるようになった。
 また写本の制作にはまず写字生(scribe)が文字を書き、その後赤入れ係(rubricator)がイニシャル部分を描き、そして彩飾師(写本画家:illuminator)が細密画を描く分業制であった。その他に周縁部のみを描く人がいる場合や、文字以外の絵の部分は同じ人が担当する場合もある。そして出来上がったものが製本業者(書籍商)へと渡り、最終チェックが行われて製本され、注文主の元に届けられるのである。

 パリでその最盛期を迎えた装飾写本だったが、ルネサンスの波によって内部崩壊が始まる。遠近法などの空間性の導入と、自然主義的なあるがままを忠実に再現しようとする流れの中で装飾写本の特徴である絵画的要素と装飾的要素と文字の絶妙な調和は崩れ、絵画が文字に勝利して逆転を迎えるのである。そしてヨハン・グーテンベルクによってもたらされた活版印刷が更なる危機をもたらす。1455年頃にマインツで製作された「グーテンベルク聖書」から15世紀末までのインキュナビュラと呼ばれる初期の活版本は、まだ文字を印刷した上でその装飾は手書きで行われていた。しかし、その後木版や金属板の版画技術が完成すると、挿絵も同時に印刷できるようになり、これによって写本が印刷本に置き代わり終焉を迎えることとなる。(余談だが、ヨハン・グーテンベルクは印刷の途中で資金が底をつき、資金提供者であるヨハン・フストに印刷機や活字が渡ることになるが、最終的に書籍を完成させたのは2人のもとで働いていたペーター・ジェファーだったとのこと。)

写本の構成

 特に豪華な装飾がなされたのは当時流行した時禱書(Book of Hours)だろう。時禱とは1日に7,8回行う定時礼拝のサイクルであり、西方教会の修道制度を創設したヌルシアの聖ベネディクトゥスの修道会則に則られている。この時禱を行うために、13世紀までは聖職者が祈祷書「聖務日課書」(breiary)を用いて都度読み上げる箇所を選択していたが、これを平信徒向けに簡略化したものが時禱書とされている。そのほかに13世紀に男性聖職者が編纂した「修道女のための手引書」が起源という説もあるが、類似は確認できるものの直接的関係は立証できていない。ただし、初期の時禱書所有者は女性が多かったそうである。

何百年もの時を経ているのにも関わらず鮮やかな細密画と周りを囲む装飾が確認できる

 12,3世紀より発達したパリの装飾写本はロマネスクからゴシックへの移り変わりを表し、この時期に読書形態も変化を迎える。読書はもともと声に出して単語を発音し、繰り返し吟味されることで記憶に刻むという身体的行為であったが、12世紀後半のスコラ学の台頭とともに読書は書かれた文字に対して注釈を加えることが目的となり、文字は意味を伝えるための視覚的記号として認識されるようになる。またこの時期に単語の分かち書きが誕生したことも影響して、読書形態は人々の前で朗読するスタイルから、個々人が本を片手に黙読するものへと変わっていった。この変化に伴い、宗教写本から文学作品に至るまで数多くの写本が制作される中で黙読に適したパラグラフが構成され、句読点で読みやすい長さに区切られ、イニシャルや見出しなど、テキストの配列法(ordinatio)が発達した。さらに検索性向上のために目次がつき、レイアウトに工夫が加えられることとなる。そして余白は注釈やメモを行う読者のための空間として解放されることとなるのであった。写本の中に混在していた装飾は、目で文字を追うことを妨げるために周縁に追いやられ、これにより周縁装飾の発達が促されたとする考察もある。

 これらの文字と装飾には羽根ペンが用いられている。鷲鳥か白鳥の風切羽のうち外側の羽軸5本程度を使い、1年ほど乾燥させてペン先を削れば完成である。面白いことに、中世では羽根ペンを削ることはごく当たり前だったため、その削り方を記した手引き書は一つも残っていないそうである。また口述筆記を行う聖職者はあらかじめ60~100本の羽根ペンを用意する必要があったとされ、消耗が早いことがわかる。写字生は右手に羽根ペン、左手にナイフを持って書き進めていくのだが、ナイフは羽根ペンを削ったり、間違ってインクをつけてしまった箇所を素早く削ったり、羊皮紙を押さえたり、また書き進めるためのガイドとして使うなど多くの役目を果たしていた。

Royal MS 10 A XIII, f. 2v
再現された写字台。
60度の傾斜はペン先へのインクの流れや、写字生の姿勢に負担のない角度だそう。

周縁部の異形

異形を退治する僧侶、Royal MS 10 E IV

 中世の装飾写本の周縁には異形がよく登場する。これらは一見して本文と関係ないかのように見えるが、1つには神の言葉であるロゴスを光らせる聖としての文字と対比させる卑俗的なものとしての周縁を意味し、他にも文字に隠れた主題的関連性を示す周縁としての機能を持ち合わせている場合がある。前者は「類似性と差異性」によって全体の美が作られるという古代キリスト教最大の神学者であるアウグスティヌスの視点が反映されている。アウグスティヌスは『神の国』で「怪物のような人間たちも、アダムあるいはノアの子孫に属するのか」という問いに対して、

・・・人間として生まれた者、すなわち死すべき理性的動物として生まれた者は、わたしたちの感覚にとってたとえどのように奇異な身体の形や色や動きや音を持っていようと、またどんな力や部分や性質のものであろうと、あの最初の一人に起源を有するものであることを、信仰ある人はだれも疑うべきではない。 

アウグスティヌス『神の国』、120頁。

として、死すべき理性的動物であればその姿形を問わずにすべて人間の起源であるアダムの子孫であるとする。私たちが異形を見て、同じ人間であるか疑ったり不快に思ったりするのは、全体を知らないからなのである。万物の創造主である神が失敗することはない。世界全体の美は様々なものが混ざり合い調和した様であり、それは全体を見渡せる神のみぞ知ることなのである。

実際、神は万物の創造主であり、どこで、いつ、何が創造されるべきであるか、またされるべきであったかを自ら知っておられる。というのも、世界全体の美が、どの部分の類似性ないし多様性によって織りなされるかを知っておられるからである。しかし全体を見通すことのできない者は、部分の醜さに不快を感ずるが、それは部分が何に適合し、何に関連づけられているかを知らないからである。

アウグスティヌス『神の国』、121頁。

だからこそ、怪物は存在するかしないか、もし存在するのであれば人間か人間ではないか、そして人間であるならば全て同じくアダムから生まれた存在であるとされる。

このような思想のもとで写本には世界全体の美が表現されている。聖である文字と俗である周縁部。これらが融合することによって世界は成り立っており、全ては欠くことのできないものなのである。

参考文献

  • クリストファー・デ・ハメル『中世の写本ができるまで』立石光子訳、白水社、2021年。

  • クリストファー・デ・ハーメル『世界で最も美しい12の写本』加藤磨珠枝訳、青土社、2018年。

  • 田中久美子『世界でもっとも美しい装飾写本』エムディエヌコーポレーション、2019年。

  • 松田隆美『ヴィジュアル・リーディング : 西洋中世におけるテクストとパラテクスト』ありな書房、2010年。

  • マイケル・カミール『周縁のイメージ : 中世美術の境界領域』永沢峻訳、ありな書房、1999年。

  • R・ウィトカウアー 『アレゴリーとシンボル : 図像の東西交渉史』大野芳材ほか訳、平凡社、1991年。

  • プリニウス『プリニウスの博物誌 第Ⅱ巻』中野定雄ほか訳、雄山閣出版、1986年。

  • アウグスティヌス『アウグスティヌス著作集14 「神の国」(4) 』大島春子ほか訳、教文館、1980年。


個別の装飾写本について書き出すと長くなるので、今回は全体感を。
それにしても散り散りバラバラになった写本を色んな図書館やら大学が保有して公開してるけど、その全体像は結構調べても全くわからなかった。未知すぎる写本、面白い。

おしまい

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