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金子遊氏が故・水井真希さんに性加害者として告発されていた事実を知って、考えたこと

2023年8月5日に投稿したnote記事が削除されたため、若干の内容の変更を加えて再投稿します。以下、文章です。

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東京ドキュメンタリー映画祭のディレクターであり映像作家・批評家の金子遊氏が、2023年7月23日に亡くなった(死因は非公表)水井真希さんから生前に性加害を告発されていた事実が広まったことで、ディレクターを降板した。

現在は削除されているが、私が読んだ水井さんの告発内容は、端的に言って信じられないほど身の毛のよだつものだった。そして、昨年12月からツイートは公開されていたにも関わらず、私にはこの情報が入ってきていなかった。普段Twitterを常用的にチェックしていないのは見逃した一因かもしれないが、何人か共通の知り合いもいたはずなのになぜ知ることができなかったのか、信じられないと同時に、自分のアンテナの張り方の甘さ、そして映画業界ひいては日本社会全体の、性暴力に対する関心の限りない低さを改めて痛感するしかなかった。

彼女の死の理由の細部を私が知ることはできない。また、その理由を彼女が主張していた性被害の体験のみに還元することは、死者に対する態度として誠実だと感じられないので、行いたくない。ただ、彼女が性被害について司法に訴えたり、SNSなどを介して公に告発したり、必死に戦ってきたこと、しかしそれが司法によって棄却されたこと自体は、事実である。彼女は多大な労力と心身の負荷、経済的負担を伴いながら、手を尽くして行動していた。

金子遊氏によれば、水井さんが原告となった民事訴訟では、いずれも性加害を否認している金子氏が勝訴した。つまり、水井さんの主張は司法によって退けられ、性加害は法的には行われたと認められていないという見方もできる。それに対して、「金子氏の主張が嘘である」と言うつもりは全くない。

だから、今私が行いたいのは、水井さんの言葉を汲み取り、彼女は彼女が語ったような出来事を主観的には体験した、という仮定から出発することだ。「主観的に」というのは、決して彼女の発言に客観性や普遍性がない、という意味ではない。彼女がこのような体験をし、それを言語化し、その体験によって苦しみ、行動した、この個人的真実そのものを、社会における一つの共通の経験として真剣に受け取る、という意味だ。なぜなら、彼女の一連の体験や苦しみは、この社会に存在しているジェンダー的不平等や権力関係、業界の歪んだ構造そのものが結晶化された一つの表出だからだ。

映画監督・文化人類学者と肩書を名乗っている私は、ドキュメンタリー映像制作と人類学の結節点で活動しているという点において、おそらく分野のレベルで現状の日本で金子遊氏と最も近い位置にいる一人だ。実際、2021年に全国劇場公開された私の初監督作『カナルタ 螺旋状の夢』は、氏が自ら作品選定に関わっていた東京ドキュメンタリー映画祭2020で日本初公開を迎え、その上映での大きな反響をきっかけに劇場公開にたどり着いた。

金子遊氏の最新作『森のムラブリ』も、同映画祭で発表されたあと、『カナルタ 螺旋状の夢』と同じシアター・イメージフォーラムを皮切りに全国公開された。両作品とも森に住む先住民族を題材にしていることもあり、高い頻度で鑑賞者の人たちから比較されてもいた。「最も近い」と言いつつ、金子氏とはパーソナルな付き合いはほとんどなく、お互いの作品の劇場公開中も一度もトークなどコラボレーションをしたことはない。ただ、今年5月に彼が教鞭を取る多摩美術大学での講義で、ゲストスピーカーとして一度呼ばれたことがある。よって、彼とは直接の知り合いであるし、共通の知り合い、友人を数えれば数十人はゆうに超える。いわば、「同じ界隈」の人間同士だ。

これから私が述べることに対して、反感を覚える人もいるかもしれない。しかし、それでも今この件について自分が考えられることを、率直に以下に記そうと思う。

私は2010年から2020年まで、生活拠点をヨーロッパに置き、人類学の学生として博士号取得を目指して研鑽に励んでいた。世界的傾向ではあるが、人類学を志す人間の中に人種的マイノリティの割合は非常に少なく、日本人としてはいつも唯一、アジア系に枠を広げても100人以上学生がいる中で2、3人しかいないうちの一人だった。

その中で、私は「自分の存在価値を無化される」というトラウマ的体験をした。日本で「日本人男性」として発言権を与えられ、自ら決断をし、感情を表現し、物事を動かすことを許されていた自分は、ヨーロッパでその立場から除外された。それは直接的に言葉で明示されるのではなく、人々のそれとない態度や扱い、言葉の受け取られ方、人々が私にかけてくれる期待や信頼の小ささ、など、あらゆる網の目で行われる複合的暴力だった。

何年もその暴力に晒されていたことで、私は無価値な自分の立場を知らず知らずに受け入れ、彼らが望むように自分のペルソナを演じるようになっていた。そして、「この社会で自分が受け入れられないこと」は当たり前の条件として受け止めるようになっていた。深層意識にはそれに対する抵抗力もなんとか保持していたからこそ、今の自分があるとは思う。だが、今の自分のメンタリティに戻るためには、数年のリハビリが必要だった。そして、今も当時の人種的マイノリティとしての無価値感は時々フラッシュバックのように蘇るため、その度に魂を震わせて戦っている。

「無価値感」が決定的に傷として刻みつけられたのは、パリ在住時代にとある暴力事件に巻き込まれたときのことだ。頭部を激しく殴られたことで、酷い腫れと首筋が伸びた激しい痛みを感じていた自分は、めまいなどの身体的不調に加え、メンタル的な落ち込みもあり、心身ともに不安定な状態にあり、日常生活をまともに送れなかった。そんななか、なんとか警察に被害届を出すべきかどうか、ということを考えていた。だが、その時周りから言われたのは、「アジア人が被害届を出しても、どうせ警察は動かないよ」という言葉だった。すでにショック状態にあった自分は、この言葉で心が折れてしまい、いざ警察署に行って残酷に見捨てられたときのショック(セカンド・バイオレンスとでも呼べるだろうか)を避けたい想いもあり、被害届を出すことができなかった。

また、1ヶ月ほど自分で療養していたものの、一向にめまいが止まらないため、当時唯一サポートしてくれていたフランス人の友人の勧めで病院に行くことにした。その人は看護学校に通っていて、「1ヶ月経ってるから大丈夫だとは思うけど、頭の問題は何があるかわからないから念のため」と言ってくれた。

しかし、めまいでまっすぐ歩くこともままならない身体をなんとか引きずりながら病院にたどり着き、受付の看護師に要件を伝えた時に言われたのは、私を絶望の淵に突き落とすものだった。

「1ヶ月も経ってて死んでもいないんでしょ、どうせ大丈夫じゃない。なんでそんなこともわからないの?あんたみたいなどうでもいい人がしょっちゅう来てこっちは困ってるんだ」

今でも思う。この体験は、現在までの私の人生で、最も惨めで、自分の尊厳を完膚なきまでに踏みにじられるものの一つだった。

結局、看護師の「厚意」によって、私は医師と対面することが「許された」。そのとき、医師に対して私はひれ伏し、涙ながらにこう言った。

「お願いです、どうかお願いです。診断結果がどうであれ、どうか私をこれ以上責めないでください。どうか、この時間だけは、私を非難せず、私の言葉を聞いてください。お願いします、お願いします、お願いします・・・」

他者が耳を傾けてくれない、自分が尊厳ある人間として見做されていない、その状態が極地に達したとき、私には文字通り、圧倒的弱者としての自分の立場を受け入れ、相手に懇願することしか選択肢が残されていなかった。

その医師は、神妙な顔つきで「大丈夫ですよ、ちゃんとあなたの言葉を聞きますから」と言ってくれた。そして、一通り症状について話したあと、MRI検査などを行い、頭部に異常がないことがわかった。その医師にとっては「普通のこと」をしただけなのかもしれない。しかし、私にとっては砂漠のど真ん中で彷徨いながら死の寸前に追い込まれていたときに、一滴の水を恵んでもらえたようなものだったのだ。

私の人格形成は、20代をほぼ丸々過ごしたヨーロッパでの体験に大きく影響されている。日本での自分がいかに当然のように権利を与えられ、やりたいことをやりたいようにできていたのか、それがいかに自らの男性性によって支えられているものなのかは、ヨーロッパで人種的マイノリティとして「その立場が奪われた」経験を踏まえれば、理解できる。そして、この経験は、同一だとは言い切れないまでも、ある視点からは女性たちが置かれている立場やこの社会に置ける彼女たちの経験を想像するための補助線になると思っている。社会学的には、このような発想を「インターセクショナリティ」と呼ぶこともできるかもしれない。つまり、ヨーロッパで「人種的マイノリティ」であった自分は、同時に「パワーや図体で劣り、性的魅力に欠けたアジア人男性」として、ジェンダー面からも劣等的立場に置かれていたのだ。

コロナ禍の2020年に帰国したあと、日本での女性や人種的マイノリティに対する圧倒的差別が今もなお存在し、それを是正しようという社会的意識もあまりに低い状況に直面し、忸怩たる思いを抱えて今まで日本で過ごしてきた。社会学者である母による幼少期の教育や、元プロサッカー選手である妹が社会からの奇異の目線を跳ね除けながらプレーを続ける姿を応援してきた自分の人生も踏まえれば、「いかに既存の男性性を溶解させ、来るべき存在のあり方を考えられるか」は、自分のライフワークの一つであるとすら言える。監督作の『カナルタ 螺旋状の夢』においても、西洋社会において歴史的に見下され、モノ化され、声を奪われてきたアマゾン熱帯雨林の先住民の人たちに、どのようにオルタナティブな方法で向き合うことができるかを、理論的にも表現的にも徹底的に突き詰めた。ひいてはそれが、ヨーロッパで差別を受けてきた自分なりの、彼らに対する連帯を表現することでもあった。

映画業界やアートの現場で、女性が方針を決定する立場にいることは圧倒的に稀であり、一見対等に見える「作家同士」の関係であっても、飲みの席やトークイベント、あるいは執筆活動などの場において、女性は数的マイノリティであることが多く、仮に同数以上であったとしても、あまりにも「持論を語るのは男性」であり、自由な振る舞いを許されるのも男性に大きく偏ることが自明視されている場面を、多く見てきた。

まだ人事的オーガナイズやイベントのプランニングに関わるような立場に立てていない私は、日本の(そして世界の)映画界やアート界に巣食う歪な権力構造に対して、正面から対決姿勢を示すことや、疑義を唱えることについては慎重だった。まだまだ「選ばれる側」の立場に過ぎない私は、いつか希望に満ちた新たなシステムの構築に自分も関わることができるようになるまさにそのために、今は耐えながら一歩一歩進む時だと考えていた。それでも、例えば博士号という資格を持ちながらも大学教員という道に進んでいないのは、アカデミックな権威性に対する自分なりの一つの抵抗の態度ではあった。また、自分の作品のトークイベントなどでは、女性作家との対話の場を多く持ち(実際、自分と同世代では、私がリスペクトし、才能に恵まれている多くの映画監督は女性である)、またあらゆる付き合いの場においてマチズム的・ホモソーシャル的対人関係の構築に加担することを注意深く避けてきた。

「自分は男性として無自覚のうちに性加害に加担していた。そのことについて改めて反省する」と言うのは簡単だ。だが、反省に次ぐ反省を繰り返すだけでは、もはや立ち行かない状況に私たちはいる。もう少し付け加えるならば、そのように自らの権威性を反省する80年代ポストモダン的態度は、実際に権力を享受している世代にのみ許された特権的ディレッタンティズムの一例でしかなく、90年代以降の政治的・経済的絶望と地球的環境危機を前提に生きる私たちミレニアル世代以降にとって、もはや時代遅れの態度である。

だから、私は内省するのではなく、また金子氏を非難することに終始するのでもなく、能動的意志として「何をしたいのか」という自分の立場を明らかにする。私は、この状況を心底変えたい。自らの権威を振りかざすことで他者を性的に搾取し、花開いていたであろう多くの才能を精神的あるいは肉体的死に追い込み、個人の尊厳ある人生だけでなく、社会、そして表現活動の豊かさをも殺してしまう、そのような暴力を野放しにしているこの構造自体を作り直したい。どれだけそれが不可能に見えても、どれだけそれが「お前が言うことか?」と蔑まれることになっても、私はその意志を明確にしたい。水井さんの死という最悪の事態が起きたことによってしか、ずっと抱えてきたこの想いを公に表現する機会を作れなかった今までの自分に対してだけは、確かに批判的でありたいと思う。

男性が男性として男性性に抵抗することは、決して「自分の既得権益を手放す」ことでも、偽善的なことでもない。究極的には、それは男性自身が男性性という牢屋から解放され、より柔軟な共感的個人として振る舞う自由につながる。それは決して単純なゼロサムゲームではなく、むしろ人間としての新たな存在様式の具現化であり、いま社会で最も差し迫って求められていることの一つだ。

社会はおろか、業界の構造を変えることも、一朝一夕では成し得ない、長い戦いになる。まずは、映画に携わる若い世代が、組合のようなものを立ち上げて連帯する体制を作り、性被害やその他あらゆる形式の暴力、搾取について可視化し、告発し、グループで抵抗するための基盤作りが必要だと思う。超高齢化社会の日本では、そもそも20代〜30代で何かを決定できる立場にある人間自体が極端に少ない。それに加え、国会議員のうち女性が占める割合は10%に満たない。つまり、水井さんのような30代の女性は、完全に政治的権利を奪われているに等しく、その権力構造の不平等性は、程度の差を伴いつつもあらゆる社会的スペースに流れ込んでいる。自分たちよりも大きな権力を持つ人間たちからの暴力に立ち向かうには、集団としてまとまることが何よりも必要だ。

確かに去年、是枝裕和、諏訪敦彦、岨手由貴子、西川美和、深田晃司、舩橋淳(敬称略)が立ち上げた「映画監督有志」が、「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します。」という声明を発表した。これは一つの進歩だと思う。

だが、発表当時から気になったのは、彼らが全員「すでに成功を収めた大御所たち」であるという点だ。彼らの良心に対して心からリスペクトを持ちつつも、やはり思うのは、すでに揺るがない立場を築いた人間たちではなく、今まさにキャリアの形成期にある若い世代が、そのままの立場で率直にパブリックに主張できる場が絶対に必要だということだ。そのような場を実現できない限り、どれだけ上の世代の映画人の一部が良心にあふれていても、結局は権威のある者しか発言権と影響力を持てないという現状の構造は保たれてしまう。

私たち若い世代の映画に関わる人間は、自らの手で、業界に巣食う暴力に立ち向かう法的、社会的、政治的基盤を実装しなければいけない。水井さんの告発と死を無駄にしないために、自らが立ち上がり、戦わなければならない。


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