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春のTEN

大きな公園の近くに住んでいるせいか、毎日明るくなる前に鳥のさえずりで目が覚める。ただ、最近は優しいさえずりというより、喧騒に近いような大合唱で、明け方4時ごろの鳥の声は安眠を妨げる、もはや騒音の範疇だ。去年まで春先にこんな風に感じたことはあっただろうか?

ロックダウンに伴って、交通量や人通りが激減し、ビルの明かりも減った都市空間は、街に暮らす動物にとってはより快適な住処となったのだろう。実際、街の鳥は人の気配や交通量が減ると、通常よりも大きな声でより頻繁に鳴くようになると記事で読んだ。ここ数年の空気汚染で30%ほど減少している野鳥の数は、この状況下でかなりの繁殖増加が見込まれるとも。

突然のウィルスの蔓延で、日常は劇的に変化した。絶え間ない移動に縁取られた毎日が一時停止され、鳥の声がうるさいと感じるほど静かな春の朝を迎えると、これまで人間が自然界にもたらしてきた変化がどれだけ破壊的なものだったのか、目の前に突きつけられる気がする。実際、ウイルス感染で命を落とす人と、地球温暖化や大気汚染、水質汚染で亡くなる人の数と、どちらが長期的に大きな数字になるのか、とか考えてしまう。別に自分はすごく環境保護とかエコへの意識が高いと思ってるわけではないけれど。

静寂の街に絶え間なく響き渡る救急車のサイレン。病院の前に停まっている大きな白い冷凍トラックの列。花溢れるセントラルパークに設営されたテントの仮設病院。死の気配に圧倒されている街の様子とは裏腹に、鳥たちは朗らかに歌い、フェリーが運行を止めた河川にはイルカの家族が訪れる。
生、死、疫病、健康。その所有。だれの?

ウィルス、遺伝子、細胞レベルの極微小なピクセルが世界を覆ってるけれど、なぜか頭の中に浮かぶイメージは、アリゾナの空で見た満天の星空と、その地で天体望遠鏡を設計していた宇宙物理学者の友人が言っていた言葉だ。

「ブラックホールから届く振動とか、届くまでに何億光年とかかかる速度とか、そういうものを前にして思うことは、バカみたいだけど自分はいかに小さくて、謙虚であらないといけないかということ。」

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金曜日の夕方、アパートの屋上に続く暗い階段を登りながらその話をしたら、三段上から平坦な声が返ってきた。

「そうやって星の下では謙虚になるとか思ってる時点で、人間中心的な視点じゃない?」

そこでふと表情を緩めて笑いジワを見せながら続ける。

「普段は我が者顔で、天上も天下も関係ないスピードで動き回ってる人間中心主義をいやというほど思い知らされる事象だと思う。
そもそも自分たちの体の中にはなんとかウイルスだけじゃなくて
常に無数の知性を持った微生物が住み着いてて、この瞬間に下す決定に
無意識の影響を及ぼしている。でも、人間は自分で下す決断は
すべて自分の知性が独断で定めたものだと疑わず、体は自分だけのものだと信じてる。『ルームメイト』はいつも体の中にいるのにね。」

人間中心設計を提唱したイームズが作ったショートフィルムに、こんなものがある。シカゴ近郊のうららかな公園に寝そべりピクニックをするカップルを起点とし、そこから徐々にフォーカスは10秒ごとにズームアウトされてゆく。100秒後には大気圏を超える上空まで上昇し、二人の姿はもう点としか見えない。次第に太陽系まで飛び出し、地球さえもはや点としか見えない。宇宙の果てというようなところまでズームアウトした後、フォーカスはカップルの身体の上に戻ると、今度は10秒ごとに皮膚の内部にズームインされてゆく。毛穴から、血管、白血球があり、細胞の奥深くまで潜り込み、さらにどんどんミクロの世界へ突入していき、最終的には陽子や中性子の世界にまで入っていく。

宇宙圏にも、細胞内にも、組織があり、多様性があり、共存システムが絶え間なく動いている− そういう巨大な、あるいは微小なスケールのどこか、ほんの針の先の点のレベルに、私達が通常見ている世界のスケールがあり”Human Centered”な視点が存在すると効果的に伝えるフィルムだ。


少し息を切らして階段を登りきり屋上へのドアを開けると、視界にはブルックリンの古いアパートの屋根や貯水槽のシルエットが広がる。マンハッタン金融街の高層ビルがにょきにょき聳え立つのは北側、自由の女神は夕日が沈む西側で、どんな非常時にも相変わらず松明を掲げている。街のブロックのところどころに、今にも飛び立ちそうな鳥の群れみたいな紅色のマグノリアが植わっている。


突然、そこら中からベルが鳴り、拍手が起こった。
最初は遠慮気味に、でも徐々に力強く、立ち昇るように。道を歩く人も驚いて周りを見渡している。同じように他のアパートの屋上や、非常階段に出て手を叩いている人たちがポツポツ見えるけれど、他に人影は見えない。空っぽの街から、途切れることのない拍手とベルの音が鳴る。

その拍手の意味は分からなかったけれど、私たちも一生懸命拍手を送った。文字通り、痛くなるほど手を叩き、大きな拍手を空に送った。
そうしなければ、泣きそうになるような死への緊張感が、街には静かに張り詰めていた。


最前線で働く医療関係者に感謝の気持ちを示すために拍手を送る風習が、スペインからソーシャルメディアを通じてやってきたと知ったのは、少し後になってからだった。


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