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【第5回】あ、もしかして指輪が気に入らなかった?:「二人、いつか稲穂が輝く場所で」

 その言葉に、田守は笑顔でこう続けた。

「え、それはもちろん一緒に暮らすんだから、今後はそうなるだろうけど。でも、急がなくていいよ。ちえりちゃんだって、そんな急にはお店を辞められないでしょう?」

 田守はふわりと微笑み、そう答えた。鷹揚な、いかにも幸福そうな笑みだった。わたしは頭を抱えたいような気持ちになりながら、もう一度こう言った。

「違うんです。もうわたしは一切、田守さんとお会いしないと言っているんです」

 唇だけではなく、手も震え出していた。けれど、わたしはそれを必死で堪え、きっぱりと断定的に告げた。

 田守は先程の鷹揚な笑顔のまま、硬直していた。言葉の意味が頭に染み通っていないようだった。わたしは、もう一度繰り返した。

「店でも、もちろん、他の場所でも、もう田守さんとは一切お会いしません」

 田守はその言葉に慌てて答えた。

「え、どういう意味? あ、もしかして指輪が気に入らなかった?」

 何故、そんな風に思えるのかさっぱりわからず、わたしは額に手を当てた。指輪は確かに前時代的なデザインでわたしの趣味ではなかったが、そういう問題ではなかった。

 けれど、ならば、どういう問題だというのだろう。どうすれば田守は納得してくれるのだろう。答えなどありそうにはない疑問だった。わたしは、それでも言葉を何とか捜した。

「ごめんなさい。わたし、田守さんのお気持ちにはお答え出来ないんです。指輪のせいじゃなくて、とにかく出来ないんです」

 田守は目を見開いて、わたしの顔を見ていた。目の前で手をいきなり叩かれた犬のような表情だった。

 わたしは自分のドリンクを一気に飲み干した。それでも渇きが収まらず、水割りを作る為の水をグラスに注いで飲み干した。心臓が急に肥大したように、ばくばく鳴っていた。

 ここまで常軌を逸した人間を、どうすれば上手く切ることが出来るのだろう。わたしは、恐怖の余りに叫びだしたい気持ちを必死で抑えていた。

 田守が、呆然とした調子で呟いた。

「指輪」

 そして、田守はわたしの手をいきなり掴んだ。

 物凄い力だった。田守は、右手でわたしの握った左手をこじ開けた。そして、エンゲージリングをわたしの薬指につけようとした。指輪のたて爪が手の皮膚に引っかかった。わたしは、痛みを感じて悲鳴をあげた。

「いや!」

 店長がすかさずこちらを見た。わたしは、田守の手を何とか振り切り、赤く跡がついた手を撫でた。幸い皮膚は切れていなかった。

 店長が、こちらに来ようとしていた。わたしはそれを目で制した。

 田守は、自分がしたことが自分で信じられないようだった。ごめん、ごめん、とおろおろしながら、わたしの手をさすろうとした。だが、わたしはその手を反射的に振り払った。

 男の力に自分が到底敵わないことを実感し、わたしの体は恐怖に震えていた。暴力の記憶は強烈で、田守の体に触れるなど金輪際出来そうになかった。

 息を荒げて手を抑えているわたしを、横に田守は変わらずおろおろしていた。

「だって」

「田舎に住みたいって」

「だから」

「あれ?」

 うわ言のような言葉が彼の口から時折漏れ出た。わたしは田守がここまで壊れていたことが恐ろしくてならなかった。出来れば穏便に済ませたかった。けれど、ここまできたらそれはもう無理だった。わたしは、田守に向き直った。

「わたしね。あなたのことを全然好きじゃないの。お客さんだからにこにこしてただけ。よく考えてみて。あなた、わたしの本名も知らないでしょう。それはそういう関係だからだよ。お店でしか成り立たない関係だからだよ」

 今までの優しい口調、可愛らしい口調を、全て捨てて言った。田守の顔が射抜かれたように固まった。

わたしは、田守から目をそらして話を続けた。

「無理なの。恋人になんかなれない。お店で会うだけでも、もう無理。だからもう来ないで」

【6に続く】


※注:こちらは、2012年に出版したわたしの自伝的小説『腹黒い11人の女』の出版前に、ノンフィクション風コラムとしてWebマガジンで連載していたものです。執筆当時のわたしは27歳ですが、小説の主人公が23歳で、本に書ききれなかったエピソードを現在進行形で話している、という体で書かれているコラムなので、現在のわたしは23歳ではありません。

 小説版『腹黒い11人の女』はこちら。奄美大島では、名瀬と奄美空港の楠田書店さんで売っています。

さて、前回予告した「キャバクラ嬢の罪深さ」にスポットを当てた、Webコラムにしては長い短編の第5回です。

全11回の予定で、すべて原稿はあるので、随時アップしていきます。

胸が痛むけれど、気に入っている短編でもあります。
よろしければご覧くださいませ。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。