【第4回】そして、同時に自分にも恐ろしさを感じていた:「二人、いつか稲穂が輝く場所で」
田守はその日、いつものように、開店とほぼ同時に店に来た。おしぼりを出し、飲み物を出し、席に座って水割りを作り、田守の前に置く。その作業をしながら、わたしはどう話を切り出そうか思案していた。とりあえず、最初は普通の歓談でもしておこうか。そう逡巡していたわたしの目の前に、田守が小さな箱と花束を置いた。
「何ですか、これ」
わたしは驚いて、田守にそう聞いた。小さな箱は、明らかにアクセサリーが入っているような箱だった。客からプレゼントを貰うことはよくある。だが、今日は別にわたしの誕生日ではないし、田守に何かをねだった覚えもわたしにはなかった。
「何ですかって、そりゃあもちろん」
田守は、はにかみながら、そう言った。わたしは、その言葉の意味がわからずに聞き返した。
「もちろん?」
すると、田守は満面の笑みで白い箱を手にした。蓋をぱかりと開けると、そこにはたて爪のデザインの指輪があった。
わたしはそれを見て息を呑んだ。田守は誇らしげにこう答えた。
「婚約指輪だよ」
その瞬間、体が田守のいる場所から逃れたいと言うように一気に引いた。背もたれに背筋をぴったりつけたまま、わたしは瞬きも出来ずに田守を眺めていた。硬直しているわたしに構わず、田守は話を続けた。
「ちえりちゃんが住みたいって言ってた田舎の家はもう少し待って欲しいんだけど、もうあたりはつけてるんだ。群馬あたりなんかどう? 一応関東だから、都心に出たい時も簡単だよ」
田守の言葉にわたしは考えを巡らせた。そう言えば、この前に田守が店に来た時、わたしはその日に見た旅番組の話をしたような気がする。その話の流れで、菜の花畑や田んぼが近くにあって、静かな古い日本の家に憧れていると言ったのかもしれない。
そうだ、わたしはこう言った。近くに小川が流れていて、春は緑が綺麗で、秋は稲穂が黄金色に輝いて、夕日が真っ赤に輝く所。いつかはそんな所に住んでみたい、と。そうしたら、田守はいいなあ、と呟いていた。行きたいなあ、と呟いていた。
たった、それだけの話だった。わたしからしてみれば、今から数十年以上経った晩年にそんな暮らしをするのもいいかもしれないという程度の話だ。
目の前にある小さな箱は、暗い店内で光るように目立っていた。それを眺めながら、わたしは唇の震えを抑えられずにいた。
ここに勤めてたくさんの客を見た。だが、わたしは今初めて、心底客のことを怖いと思っていた。そして、同時に自分にも恐ろしさを感じていた。
適当な甘い言葉。調子のいい言葉。わたしは客もそれはあくまでも店の中での話だということをわかっているものだと思っていた。けれど、田守は全くそれをわからなかった。田守は、全てを真に受けたのだ。
わたしは震える唇から、かろうじて言葉を発した。
「もうお店に来ないでください」
【5に続く】
※注:こちらは、2012年に出版したわたしの自伝的小説『腹黒い11人の女』の出版前に、ノンフィクション風コラムとしてWebマガジンで連載していたものです。執筆当時のわたしは27歳ですが、小説の主人公が23歳で、本に書ききれなかったエピソードを現在進行形で話している、という体で書かれているコラムなので、現在のわたしは23歳ではありません。
小説版『腹黒い11人の女』はこちら。奄美大島では、名瀬と奄美空港の楠田書店さんで売っています。
さて、前回予告した「キャバクラ嬢の罪深さ」にスポットを当てた、Webコラムにしては長い短編の第4回です。
全11回の予定で、すべて原稿はあるので、随時アップしていきます。
胸が痛むけれど、気に入っている短編でもあります。
よろしければご覧くださいませ。