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【Vol.13】俺は10億稼いでいるんだという男:沢崎

  金を稼いでいる人間と、金を稼いでいない人間はどちらが惨めだろうか。そう問えば、誰もがそれは金を稼いでいない人間だ、と答えるだろう。

 しかし、惨めさとは金銭の多寡で決まるのだろうか。

 そう思いながら、ちえりは、今日来た客、沢崎が散らかしたグラスの残骸を眺めている。


One night's story:沢崎

  いつもの週末。ちょっと酔っ払ってはいるけれど、他の誰もとそう変わらない30代前半の客。その日、最後に入店した二人組は、わたしに何の印象も与えなかった。

 その日はボーイが足りなかったので、わたしは客席にはつかずウェイトレスをしていた。他の女が二人、席に着いた。

 酔った勢いに乗って、粗野に、失礼になってはいたが、別段、特別に酷い男には見えなかった客が変わったのは、煙草を頼んだのがきっかけだった。煙草を頼んで、金を出したお客に、わたしら60円のお釣りを返した。

 しかし、その客は、何故かお釣りを受け取ろうとしない。

「こちら、お釣りになります」

 はっきりと彼に向かって言う。しかし、客はそっぽを向いたままだ。

 「60円こちらに置きますね」

  仕方なくそう言ってテーブルに小銭を置く。そして、そのまま営業終了時間になった。

 立ち上がる客に、席に着いていた女が「ありがとうございます」と言いながら、何かを手渡した。

 瞬間、がちゃん、という大きな音が後方から聞こえた。

「この店は、俺を馬鹿にしてるのか!」

 その声に驚いて振り向くと、鉄製の灰皿が頭の真横に飛んで来た。

「ちえりちゃん!」

 店長が叫んだ。客がいる席では、その席に着いていた女が必死に暴れる客を諭そうとしていた。暴れる客の連れは呆然とその場に立ち尽くしていた。

 店長が客を羽交い絞めにする。席に着いている女は恐怖のあまり、へたりこんで動けない。

 わたしは急いで、女達の手を引き、カウンターの中の死角へ逃げ込もうとした。

 その時、また、後方から何かが飛んで来た。グラスだった。カウンターの端に派手な音を立ててぶつかり、破片が砕け散る。あちこちで悲鳴があがった。わたしは、更に急いで、女達の手を引っ張った。

「痛い!」

 一人の女が悲鳴を上げた。ふくらはぎから血が流れているのが見えた。

「血が」

 もう一人の女が呆然と呟いた。

「誰か、警察と救急車!」

 二人をカウンターの死角に押し込みながら、叫んだ。

「わたしのせいだ」

 ガラスの破片が足に刺さった女が、涙声で言う。

「わたしがテーブルの上にあった煙草のお釣りを、帰る時に渡そうとして10円を落としちゃって。どこかに入り込んで見つからなかったから、じゃあ、レジから持ってきますね、って言ったら、『俺がたかが10円ごときで怒るように見えるのか』って、あんな風に」

「怒ってるじゃん」

 余りに呆れて、思わず冷静に突っ込んでしまった。

「だから、『あいつ、俺は一年で十億稼ぐんだ。10円ごときでとやかく言うな』とか言ってたの?」

 もう一人の女も同じく、開いた口が塞がらない、といった調子で言った。

 男の怒声は、まだ店中に響き渡っている。しかし、わたし達は、余りに呆れ過ぎて、恐怖も消し飛んでしまっていた。

「何だそれ。お前の年収なんて知る訳ないじゃん。超初対面だし」

「ていうか、まず怒る理由がわからない。わたし達、超親切じゃん。正しい客への対応してるじゃん。何で、それで怒る訳? 十億稼ぐとまともじゃなくなるのかよ」

 驚き過ぎた私達は、怒号が響き渡る店内の中、何故か冷静に話していた。

「確かにそうなんだけど……。なんで、二人ともそんなに冷静なの?」

 怪我をした女が、ぽかんとした顔で聞いた。

 わたしは、すぐさま、こう答えた。

「どう考えたってあいつが悪いんだから、心を動かす必要なんて1ミリもないからだよ」

 男が、煙草のお釣りを渡した事でそこまで激昂したのは、何故だろう。

 それは、男には「10億円稼いでいる自分」しか頼るよすががないからだと私は思う。

 わたし達は、単に忘れ物を渡しただけだ。けれど、それで、男は「俺は10億円稼いでいるのに10円で怒るような男だと思っているのか」と思う。

 それは、男が必死にその10億円にしがみついているからだ。

 それしかない、それ以外の何もない惨めな人間だと、自分自身でそう思っているからだ。

 そのことに、わたし達は一切、関係がない。
 だから、心を動かす必要などない。

 その後、わたし達は警察に行き、事情聴取を受けた。

 警察官は皆、わたし達に好意的だった。ドラマに出てきそうな絵に描いたような刑事が、

「ああいう悪い奴はおじちゃんがきっちり懲らしめてやるからな」

と言った時、わたし達は思わず吹き出した。

「あの人だったら、頼んだらカツ丼出してくれそうじゃない?」

「滅多に警察署なんて入れないし、食べてみたいよね。刑事が出してくれるカツ丼」

なんて、こっそり囁き合っては笑った。

 女の怪我は、幸い全治一週間程で完治する軽いものだった。

 それでも、足を引き摺る彼女にわたし達は胸を痛めたけれど、慰謝料をいくらふんだくるかという話で、なんとか皆で笑った。

「慰謝料もらったら、皆で社員旅行とかしようよ」

「いや、皆バイトだから。社員じゃないし」

「ていうか、皆が旅行に行ったらお店どうするの?」

「そこは店長が女装して」

「案外レアキャラってことでいつもより人気が出たりして」

「ありえる」

 そんな話をしながら、朝の道路を歩いた。

 10億円稼いで、10円の金で馬鹿にされたと怒り、現在も警察に拘留されている男。

 10億円稼ぐことなど生涯なく、10円の金で怪我をさせられ、けれど、こうして友達と笑い合える女。

 どちらの方が正しく、どちらが惨めなのかはわたしにはわからない。

 けれど、わたしはこうして笑い合える方を選びたいと思った。

 女の怪我はすぐに治り、彼女はその事件で同情を集めて客を呼び、翌月指名数を大幅に上げた。

「慰謝料プラス指名ボーナスで懐潤いまくりよ」

 給料日にそう言って笑う彼女に、わたしは「還元して! 還元!」と肉まんをねだった。

 セブンイレブンで買った肉まんを頬張りながら、10億円分の肉まんは積み上げるとエベレストを越すか、なんてくだらない話をしては、やっぱり、わたし達は笑っていた。

 笑うしかない、と思わないように。笑えるんだ、と思えるように。


かつて、ちえりをやっていた2022年の晶子のつぶやき

※注:こちらは、2012年に出版したわたしの自伝的小説『腹黒い11人の女』の出版前に、ノンフィクション風コラムとしてWebマガジンで連載していたものです。執筆当時のわたしは27歳ですが、小説の主人公が23歳で、本に書ききれなかったエピソードを現在進行形で話している、という体で書かれているコラムなので、現在のわたしは23歳ではありません。

 小説版『腹黒い11人の女』はこちら。奄美大島では、名瀬と奄美空港の楠田書店さんで売っています。

 さて、ちえりの独り言を挟んで、今度は男たちの話に移るターンの第一回目。

 自分で読み返して衝撃でした。

 この話、もうずいぶん前になったから言えるけど、実話なの。足を怪我した女の子は19歳だった。

 ていうかさ。当時のわたしも平気な顔して書いてるけど。女の子たちも「こんなのありがち」って顔をしてて、で、夜の商売だと実際ありがちなんだけど。

 普通に酷いわ。絶句レベルで酷い目にあってるわ。

 こういう普通の感覚、当たり前の価値観を麻痺させないと、わたしも、あの頃のお店にいた女の子たちも、店長もボーイもみんな、お金を稼いで生きていくことができなかった。

 だけど、彼ら彼女らは、自分が取るに足らない人間だとわかってて、やりたいことや本当に大切なことに走り出せないことを恥ずかしく思ってて、自分を卑下する夜もあったけれど、それでも、

 こんな風に他人を貶めたりはしなかったよ。

 なんかもう、店のスタッフ全員を抱きしめてあげたい。今からでも社員旅行に連れていきたい。

 いや、実際、社員旅行あったんだけどね。当時のわたしはずいぶん前に辞めてるのに呼び出され、社長夫妻の横の金屏風になぜか座らせられるという謎の経験をしているんですけどね、わたし。何なの、このおめでたさ。

 という面白昔話をしていたら、ちょっと気持ちが落ち着きました。

 小説版の出版の際にいただいた感想には結構「客には腹黒いけど、本当はみんないい子」なんて本当はないんだろうけど、と、いうものがあった。

 ところが、いや、これがマジで本当にみんないい子でして。

 キャバクラに勤めていた頃から20年経った今でも全然付き合いあるし、加計呂麻島に遊びに来てる子も何人もいるし。

 そんなに長く、いい子じゃなきゃ付き合えないじゃない?

「店の子たち、みんないい子だった。心がきれいだったよ」

 これは、5年前に加計呂麻島に遊びに来てくれて、小説版でもモデルとして登場している女の子が言った台詞で、わたしは、焼酎をロックで飲みながら、その言葉に「うん」と頷いた。

 同じ時代を過ごした女の子たちはみんなそう思っていると思う。

 だってさー‼

 わたしがこの小説を出した時、もう皆店を辞めてたけど、20人位集まって出版おめでとうパーティしてくれたんだよー‼

 モデルになった子が「晶子ちゃんの小説に出てること、わたし、自慢しているの」って言ってくれたり、逆にモデルにならなかった子が「わたしもモデルになりたかった」と言ってくれたり、したんだよー‼

 いや、本当、嬉し過ぎて戸惑うよね。泣いちゃうよね。

 ま、総論を言うと、

 人を驚かせるなら嬉しさのあまり泣いちゃう感じで驚かせろ!

 ですよ。人生それしかないわ。

 ていうことで、これからは男性の話ターンです。楽しみにしててね♡

 それじゃあ、またね!


作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。