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【小説:腹黒い11人の女】(12)「ヒカルは勤勉2」

 九月も終わりに近づき、ついこの前まで焼けるように熱かった日差しは既に落ち着き始めていた。夏休みを利用して海外に行った客からの土産の菓子も店からなくなり、私達は結局今年は海に行かなかったなどと言いながら、いつもと変わらない店内にいた。もうそろそろ、エアコンの温度設定変えなきゃ、と誰かが呟いた。秋は人恋しくなる季節だという。だが、常日頃、人にまみれた生活をしている私達には、そんなものは関係なかった。

 唯一変わったのは、夏休みを終えたヒカルが、急に忙しくなった事くらいだ。年度末に論文の提出があるそうで、その準備にヒカルは日夜追われていた。この冬からは、ほとんど出勤出来なくなるので、ヒカルは今の内に生活費を稼ぐ為に毎日出勤していた。
 
 入りにくい裏通り沿いという立地のせいか、うちの店に学生が来る事はほとんどない。客の大半を占めるのは、近隣に勤める男か住民だ。だが、その日、まだ店がオープンして間もない時間帯にやってきた客は珍しく若かった。

 一人は短い黒髪をワックスで立てた髪型をして、服装は黒いジャケットにTシャツ、下はデニムを穿いている。もう一人は少し染めた髪をやや長めに伸ばし、黒いシャツに同じく下はデニムだった。私大の学生か、広告代理店やIT系企業の若手という所だろうか。そう思いながら私は、その二人の間に腰を下ろした。

「こんばんはー。ちえりです。ここには初めて来るの?」
「うん、そう。何か珍しい店だね」
「あぁ、よく言われます。オーナーの趣味なんですよ、これ」

 大抵の客が言う言葉に、私はアイスペールを手元に引き寄せながら答えた。とりあえず一番手だし、無難な路線で話しておこう。私は、次に店の衣装の話題でも振ろうとした。その時、茶髪の男が私に声をかけてきた。

「ここにヒカルって子がいるでしょ」

 私は水割りを作る手を止め、男を注視した。どのように答えればいいのか、迷った。だが、考えてみれば店の入り口近くにある今日の出勤予定者の顔写真が張り出されているボードに、既にヒカルは名前を連ねている。誤魔化しても仕方ないので、私は手短に答えた。

「えぇ、います。ヒカルのお知り合いなんですか?」
「いや、まぁ」

 そう言って男は言葉を濁し、黒髪の男の方と目配せを交し合った。私はその二人の様子を怪訝に思いながら、水割りを二人の前に置いた。二人はグラスに口をつけ、それからも店内をきょろきょろ見回していた。私はにこやかに笑い、黒髪の男の方の腕を小さく突いて言った。

「なぁに、きょろきょろしちゃって。何、探してるの?」
「いや、ヒカルって今日いないの?」

 私は、その言葉で警戒心を強めた。もしかして、この男はヒカルのストーカーなのではないだろうか。うちの店では、かつて女が自宅近くに住む男に付きまとわれ、店にまで来るようになった事があった。私は、顔を強張らせないよう注意しながら言った。

「ヒカルは今日、十時から出勤だと思うけど……。そんなにヒカルが待ち遠しい? 私じゃ駄目なのかなぁ」

 そう言うと、黒髪の男が慌てたように手を振った。

「いやいや、全然そんなんじゃないんだけどさ。むしろ、ちえりちゃんタイプだし」

 本当はヒカルとこの男の関係を聞き出したかったのだが、いつもの調子の台詞を付け加えたら話がずれてしまった。まぁ、今は普通にキャバクラ嬢トークをやっておこう。私は、はにかんだ笑顔を作り、言った。

「本当? 嬉しい。私も久々に好みの人に会えたって思ってたから」

 黒髪の男が、へへ、と笑い、相好を崩した。

「何だよ、俺、邪魔者じゃん」

 茶髪の男が、不満げに口を尖らせて言う。

「あはは。ちょっと待ってくださいね。今、まだ女の子少なくて。十時過ぎたら遅い出勤の子達が来るから。そうしたらよりどりみどりですよ」

 そう言ったが、茶髪の男は面白くなさそうにソファの背もたれにでんと体を預けた。黒髪の男は「おいおい、そんな不機嫌になるなよ」と笑いながら、私の肩に手を回す。何だか、あっちもこっちも大変だ。私は、黒髪の男の手からさりげなく逃れつつ、不機嫌な茶髪の男に「もう少しですよー」と言った。すると、茶髪の男はこう答えた。

「十時になったらヒカル来るんでしょ。じゃあ、ヒカル呼んでよ」

 指名をするのはいいが、ヒカルとこの男は気まずい関係ではないのだろうか。私は首を傾げて言った。

「それはもちろんいいけど。呼ぶとなると、指名料がかかりますけど、大丈夫ですか?」
「あぁ、いいよ。俺達、あいつを見に来たんだし」

 「見に来た」という言葉に、違和感を覚えた。その発言には、嘲りの匂いがあった。私は、「ちえりちゃんは今彼氏いるの?」など完全に口説く体制に入っている黒髪の男を無視して、茶髪の男に聞いた。

「ヒカルとは前に何処で会ったんですか?」
「えぇ?」

 茶髪の男は顎を上げ、高慢に笑いながら言った。私はかちんと来ながらも、笑顔を三割増しにして言った。

「二人みたいな素敵な人とヒカルは何処で知り合ったのかな、と思って。こういう人がいっぱいいる所なら私も遊びに行きたいなぁ」

 我ながら、話の繋げ方に無理がある。そう思いながらも、全てを笑顔で誤魔化す事にして私は茶髪の男の返答を待った。男が、まんざらでもなさそうに答えた。

「俺達がいる所に遊びには来れないかなぁ」
「いや、学食とかならいいんじゃないの?」

 黒髪の男が口を挟む。

「まぁ、そうだけど。でも教授に見つかったら微妙じゃねぇ?」

 学食。教授。その言葉に私は顔を上げ、二人をまじまじと見た。私は、何も知らない振りをしてこう言った。

「え、ひょっとして学校で? 二人とも学生なの?」
「そう。ヒカルちゃんと同じ学校で同じゼミ」

 茶髪の男は髪をかき上げ、楽しそうにそう言った。

「しっかし、驚くよなぁ。あいつがこんな所で働いているなんて」

 黒髪の男が店内を見回しながら、そう呟いた。

「だよな、あいつもこんな格好してるの? すっげぇ露出度だよな」

 茶髪が私の衣装をじろじろ見ながらそう言った。今日の私の衣装は、黒のエナメルのコルセットとミニスカートだ。胸の谷間が丸見えで、ストッキングを吊るガーターまでも見えている。男の視線は太ももの間に来るのが分かった。私はそれとなく膝を斜めに向け、男の視線を避けた。

 黒髪の男は私の様子に気づかず、こう続けた。

「普段、つんけんして飲みに誘っても即断る癖に、こんな格好してるなんてなぁ」

 茶髪の男が同意の言葉を返す。

「いつもお高く止まってる癖に、金の為にそこまでやるってすげぇよ」

 黒髪の男が、へらへらと笑いながらこう続けた。

「そこまでして大学行きたいのかよって感じだよな」
「なぁ」

 二人は、そう言っていかにも楽しそうにくつくつと笑った。

 きっと、この男達はヒカルの事情を知っている。そう思いながら、私は先日の事を思い出していた。
 
 一ヶ月程前のある日。論文やら課題やらで忙しかったというヒカルが、久々に出勤してきた。私とヒカルは待機席で隣り合わせになった。いつもヒカルは本や資料のようなものを持参して、暇な時間はそれに目を通している。だが、その日は持ってくるのを忘れたそうで手ぶらだった。その日は台風だった。どんなに営業を頑張っても、この暴風雨では誰も来ないだろう。店の雰囲気は、そんな風に諦めで充満していた。

「今日、誰か来そう?」

 いい加減、客とのメールに疲れた私は、隣にいたヒカルに何となく聞いた。

「全然駄目。今日、大阪からの出張の帰りに来るかもって言ってた人がいたんだけど、新幹線止まるかもしれないから延泊する事にしたんだって。まぁ、来週に来て貰うつもりだけど」

 ヒカルが携帯を閉じながらそう答えた。

「大阪かぁ、いいな。私も何処か行きたいよ」

「ね。私は海外がいいな。フランスあたりに行きたい」

「私は国内でいいかな。あいが新潟もいい所だよってこの前言ってた」

「あいちゃん、新潟出身なんだ」

「そうそう、色白な所がそんな感じだよね。そういえば、ヒカルは出身、何処なの?」

 私達が座っていた待機席は、女達がたくさんいる場所から少し離れている一角で、近くには誰もいなかった。薄暗い店では女達が沈没した船のようにあちこちにいて、携帯の液晶だけが光っていた。暇を持て余した店長やボーイはグラスやボトルを磨きつつ、有線放送を消して気に入ったCDをかけ、足先でリズムを取っている。誰もがそこにいながら、誰もが自分ひとりの世界にいるように見えた。そんな中、私とヒカルは出身地の話がきっかけで、長い話をした。
 
 ヒカルの出身地は広島で、ヒカルの実家は小さな煙草屋を経営していたそうだ。ヒカルはその家の中で突然変異のように優秀で、幼い頃から神童と呼ばれていた。だが、家が貧乏でヒカルは塾にも通えず、全て独学で勉強して東大に受かったそうである。

「どうして、東大にしたの?」

 私は、ヒカルに聞いた。

「うーん。何かこうわかりやすく日本一、みたいな所がいいかなって。うち、凄く貧乏で、でも私には無理していろいろ投資してくれたの。だから、自慢になるような所に行こうかなと思って。あと、私、勉強好きだからさ。一番頭いい大学に行けば、一番勉強出来るじゃない」

 ヒカルは、いつものはきはきと論理的に話す口調ではなく、悩みながらそう答えた。理由を考えた事なんてなかったな、と言って少し笑った。それから、またヒカルは話を続けた。

「本当は留学したかったんだけど、うちの経済状況じゃ、ちょっと難しかったしね。しかも、私が大学に受かってから、うちのお店が潰れちゃったの。家もなくなっちゃったから、今は家族全員離散して親戚の所にいる。だから、最初は大学に行くの悩んだよ。でも、私、どうしても行きたかった。必死で勉強して受かったんだもん」

 その言葉に私はうん、とだけ答えた。どうしても行きたかった。その言葉を言う時のヒカルは、彼女にしては珍しく感情を滲ませていた。十代の頃のヒカルを、私はふと思い浮かべた。

 黒髪に制服で学校帰りに図書館に向かい、勉強をしているヒカル。夕闇に沈んだ町で本や参考書がいっぱいに詰まった重い鞄を背負って一人歩くヒカル。その時のヒカルは広島の町を眺めながらどういう気持ちだったのだろう。

 テーブルの上で手を組みながら、私はじっと考えていた。ヒカルが私の方を見てふっと笑った。そして、またヒカルは言葉を続けた。

「うちの店が潰れた時に、それでも学校に行きたいなら風俗に行くしかないかなって一瞬考えた。でも、やっぱりそれはきついと思ってさ。だから、この店が見つかってよかったよ。シフトの融通も利くし、頑張れば指名バックで結構いいお金になるし、女の子達もいい子達ばっかりだしね」

ヒカルはそう言って、それから手のひらを私に向けて「ちえりもいるしさ」と続けた。私はそれに小さく笑った。そして、今のヒカルの姿をそっと眺めた。

 髪は赤が入った茶色で肩までのボブにしている。今日の店の衣装は、警官を模したものだ。白に紺でラインが入った肩章つきのシャツに、座って下着が見えないぎりぎりの長さのミニスカート。そして足は網タイツで包まれている。私も、もちろん同じ格好だ。露出度満点の、派手派手しい格好をしている私達にも、高校生の頃があったのだ。そう思うと自分が今ここにいる事が不思議で、そして何故か切なかった。

 沈み込んだ様子の私を勘違いしたのか、ヒカルがこちらの様子を伺っていた。そして、明るい口調で言った。

「なんか、いろいろ話しちゃって恥ずかしいな。私、今時いるかよってぐらいの苦学生じゃない」

 ヒカルは、そう言って一人で照れていた。「思い切り、二宮金次郎並の苦学生だよ」。私はそうヒカルに言って二人で笑った。

「こういう苦労話を客にしたら効果的かな、とも思うんだけど、客には言えないだよね」

 ヒカルはそうぽつりと呟いた。

「言わないでも、この前、しゃぶしゃぶ奢って貰ってたじゃん」

 私は、そうヒカルに返した。

「そうそう、昼も夜も、経済学を勉強してますから」

 ヒカルはそう言って、また笑った。

 その日は、結局店には誰も来ず、一時に閉店した。何処かで酒でも飲もうか、という話が女達の間で出ていた。だが、ヒカルは誘いを断り、帰っていった。

「今日はゆっくりしたから、明日からまた頑張らないと」

 ヒカルは帰り際、手を振りながらそう言った。晴れやかに笑うその笑顔は、夜道の中ですら光って見えた。
 
 ヒカルと同じ学校だという男達は、十時が近付くにつれ、きょろきょろと店のドアに視線を走らせていた。勉強と金を稼ぐのに忙しいヒカルは、いつもきっとこの男達の誘いを断っていたのだろう。だが、男達は何処からかヒカルがここに勤めている事を知り、ここへ来たのだ。

 男達は相変わらず、時計を見ては「まだかな」などと呟いていた。私は、じっとテーブルに置いてあるウィスキーのボトルを見ていた。手が、細かく震えていた。このウィスキーのボトルで、この男達の頭をかち割ってやりたかった。

 ヒカルは、この店の中でもかなり可愛い方だ。ましてやゼミの中でなら一番に綺麗だろう。この男達は、ヒカルに相手にして貰えなかった腹いせも兼ねてここに来ているのだ。キャバクラに勤めてまで、大学に行きたがる惨めな女としてヒカルを貶める為に。

 そう思うと、悔しさで足が震えた。けれど、この場をどうすればいいのかわからなかった。衝動のまま、この男達を瓶で殴っても大騒ぎになるだけだ。気持ちのままに怒っても、力に訴えられたら、結局、店長やボーイに出てきて貰うしかない。店に一年以上いる私は、そんな事ぐらいよくわかっていた。私は、ただ自分の無力さに歯噛みしながら、そして、怒りの余りに目の前が真っ赤に染まるような気持ちになりながら、動けずにいた。
 
 その時、店のドアが開いた。逆光になっていて顔は見えなかったけれど、見た事のある服を着ていた。ヒカルだ。

 男達は酔いが回ってきたせいか、まだヒカルが来た事に気付いていなかった。私は、「ちょっとトイレ」と言って席を立ち、急いでヒカルに駆け寄った。

 ヒカルはいつものように笑顔で店長と軽口を叩き、更衣室に行こうとしていた。私はヒカルの前に立ちはだかり、口を開いた。

「ヒカル、ちょっと」

「何?」

 不思議そうな顔をするヒカルを店の外に押し戻し、私は早口に言った。

「学校の奴が来てるの。同じゼミだって言ってた。長めの茶髪と短い黒髪の男」

「え」

 ヒカルの顔が、私の言葉を聞いた瞬間に硬直した。

「噂でここにいるって知ったらしくて。ヒカルを見に来たって」

「嘘」

 ヒカルの顔の血の気が、さっと引いていった。私は、ヒカルから目をそらしながら、言った。

「まだ、あいつらは気付いてない。もうヒカルがここにいるのはわかっちゃったけど、今日は出勤しないで帰る事は出来るよ。店長なら許してくれるよ。私が言ってもいいし」

「でも」

 ヒカルが私の顔を見上げながら、必死な様子でそう言った。ヒカルを遮り、私は話を続けた。

「当日欠勤の罰金にはならないと思うよ。店長に上手く言っておく。あの男達にも何か適当に言うよ。『ヒカルはしばらく忙しいから出勤しない』とか」

 ヒカルが、私の言葉に考え込んだ。薄暗い路地の中、店の看板がヒカルの顔を青白く照らしていた。首元に大きなストールを巻き、細いパンツにパーカーを着ているヒカルは、店の衣装を着ている時よりずっと幼く見えた。

 大きなかばんには、いつものようにノートパソコンと山のような資料が入っている筈だ。こんなに必死な子を、どうして嗤う事が出来るんだよ。私は、店の中にいる男達に舌打ちをしたい気分になりながら、ヒカルの返答を待った。ヒカルは俯き、唇を噛み締めながら考えていた。

「人が足りなくなるとか、そんなのは気にしなくていいから。何とかするから」

 私は無言のヒカルに、言葉を重ねた。ヒカルは顔を上げ、それから店のドアを見て、もう一度唇を噛んだ。瞳があちこちを泳いでいた。一度息を吐き、ヒカルが言った。

「いいよ。行く」

「え」

 私は、そう声を漏らして口を空けた。余りにもぽかんとした顔をしていたのだろう。ヒカルが少し笑って続けた。

「どっちにしろ、ばれちゃったならしょうがないもの。開き直って教授には言わないよう、口止めした方がいいじゃない。あいつら、私の事を指名してくれるんでしょ? ついでに店の成績も上げておくよ」

「そんな。無理する事……」

 ないよ、と私が言い終わる前に、ヒカルが言った。

「無理じゃないよ。そうするしかない」

「でも」

 食い下がった私に、ヒカルが語気を荒げて言った。

「仕方ないじゃない」

 私は、ヒカルの声音に息を呑んだ。

「ちえりの気持ちは嬉しいよ。でも、仕方ないの。私、ここにいたいんだもん。出勤を減らすのも嫌だし、また、いつあいつらが来るかってびくびくしながら働くのも嫌。だったら、今、開き直った方がいいよ」

 ヒカルが一気に言った。そして、それから息を吐くようにぽつりと言った。

「そうするしかないよ」

 私の言葉を待たずに、ヒカルは店内へと続くドアを開けた。

 更衣室に向かう途中でヒカルは男達に「うわ、来たの? もうびっくりー」などと明るく声をかけた。男達は「うわ、本当に来たよ」などと言いながら赤ら顔で笑っていた。ヒカルの後を追いかけ、私は更衣室に入った。

「もう、ほら、大丈夫だから。ちえりも席に戻らなきゃ。怒られちゃうよ」

 ヒカルがロッカーを開け、着替えながら言った。

「だって」

「だってじゃないよ、もう。仕事なんだからさ」

 言い返した私にヒカルは化粧をチェックしながら笑って言った。

「どんな顔していいのかわからない」

 私は、思わずそう言っていた。

「私、さっきあいつらの事、ウィスキーの瓶で殴りたいって思った。昔の不良かよって感じだけど、本当に」

 ヒカルが、苦笑しながら言った。

「私の為に暴力沙汰なんて起こさないでよ」

 ヒカルの言う事が、正論なのはわかっていた。けれど、怒りが収められなかった。二つの心で混乱した私は、こう口に出していた。

「そんな事しないけど、でも、ヒカルだって、」

 悔しいでしょ、と言い終わる前に、ヒカルがこちらをばっと振り向いた。目に激しい色が浮かんでいた。額に薄く血管が浮き出ていた。髪の毛が唇に張り付いていた。そして、その唇は歪んで細かく震えていた。

 震える唇から、引き絞るようにヒカルが言った。

「言うな」

 厳しい声音だった。私は、息を呑んだ。ヒカルが、額に手を当て、小さな声で繰り返した。

「言わないで」

 私は、そこで自分がした事をようやく悟った。耐えようと、なんて事はない振りをしようとしていたヒカルの感情を、私は後先を考えずに揺らしたのだ。

 ヒカルは、壁にもたれて髪の毛で表情を隠していた。肩先が小さく震えていた。もともと華奢な体が、いつもより更に頼りなく見えて、私は、その肩に思わず手を伸ばした。けれど、その手は途中で止まった。

 自分には、そんな風にヒカルに触る権利などないような気がした。私はヒカルの気持ちを不躾に探り、不用意に揺らしたのだ。そう思うと身動きが出来なかった。
 
 いっその事、何も知らない振りをしていればよかったのだろうか。ふと、そう思った。だけど、私は心の何処かで、けして自分はそんな風に出来ないと知っていた。
 
 だって、私はその時、どうしてもヒカルを一人にしたくなかった。あの男達の所に行かなきゃいけないヒカルを、一人にはしたくなかった。
 
 こんな風に何もわかろうとせずに私達を嗤う男の間で、たくさんのものを抱えて働くヒカルに私は何も出来ない。
 
 けれど、ならば、それでも、せめて、私はヒカルを一人にしたくなかった。
 
 私は、頭を抱えて叫んだ。

「あぁ、もう!」

 勢い任せに近くにあったロッカーを蹴った。がん、という音があたりに大きく響いた。足にがくっという妙な感触がした。私は思わず「いってぇ」と叫び、足に手をやった。靴は脱げて床に転がっていた。

 ロッカーがもう一度、かんという音を立てた。一体何なのかと、私とヒカルは上を見た。すると、折れたヒールが更衣室の床に落ちてきた。ヒールはからんからんと鳴りながら更衣室の隅へと転がっていった。そして、更衣室内がしんと静まり返った。

 ヒカルが、唖然とした顔で私を見た。私も、思わず口をぽかんと空けていた。片方だけ素足になった足先にコンクリートの床が冷たかった。ヒールの高さが片方だけない分、足元が不安定になり、私はよろめいた。ロッカーに手をつき、床の隅に転がっている壊れた靴を呆然と見た。それから、ヒカルを見た。

 目が合った瞬間、ヒカルが、ぷ、と吹き出した。

「何それ。びっくりした。ちえりって、昔ヤンキーだったの?」
「いや、全然」
「でも、普通、ロッカー蹴らないってば。しかもヒール折れてるし。力強過ぎだよ」
「なんか、だって、苛ついちゃって」

 私は、恥ずかしさの余り、もじもじとしながらそう答えた。

「怖いなぁ。キャバクラよりキャットファイトの店に行ったら稼げるんじゃないの? ていうか、靴が勿体ない」

 ヒカルは、私を楽しげにからかいつつ、そう言う。

「いや、もう古い靴だし、それはいいけど」

 どうしたらいいのかわからないまま、私はもごもごとそう答えた。

「ほら、誰かが置いていった靴があるから、これ履いて」

 ヒカルが、そう言って更衣室に置いてあった靴を私に手渡した。私は靴を受け取り、おとなしく履き替えた。お互い、勢いが削がれてしまった。私達は、意味もなく顔を見合わせて笑った。

「何か、すっきりした。ちえりが代わりに怒ってくれたからかな」

 ヒカルは目元を拭ってそう言った。それから、もう一度コンパクトを開けて化粧をチェックした。パウダーで鼻のてかりを押さえ、グロスのよれを指で直す。それから大きく伸びをし、エナメルのコルセットの紐を結び直した。ほら、ちえりもちゃんとして。そう言いながら私のずり落ちていたブラジャーの紐を衣装に押し込んでくれた。

 更衣室のドアノブに手をかけ、ヒカルが言った。

「もう、今日はあいつらに絶対シャンペン空けさせるんだから」

 私は、その言葉にこう返した。

「あ、じゃあ、私、黒髪に気に入られたっぽいから協力する」

「じゃあ、二本空けよう。お互いドリンクバックが付くように」

「いいよ、ヒカルだけで」

「いや、絶対二本空ける。ぼんぼんの金、目いっぱい奪い取ってやる」

 ドアの前で、暗い照明にぼんやりと浮かぶヒカルの横顔にもう涙はなかった。ただ、楽しげに今日の指名バックとドリンクバックを計算しながら、客をどう引っ張るかを考えているように見えた。昼も夜も経済学勉強中。私はそう言っていたヒカルの事を思い出した。

 そうだ、ヒカルは勤勉だ。夜も昼も、自分の事を哀れんでいる暇などないくらいに熱心に勉強しているのだ。

「よし、じゃあ、今日もがっちり稼ぎましょう」

 そう言い合いながら、私達は店へと続くドアを開けた。
 
 それからヒカルは、あの男達を閉店まで店にいさせて、シャンペンをなんと三本空けさせた。会計を見て男達は目を丸くしていたが、カードで支払って事をなきを得た。私は黒髪の男に気に入られ、しつこくアフターに誘われたが速やかに断った。ヒカルは、「何か恥ずかしいな、でも来てくれて嬉しい。だけど、私がここに勤めている事、教授には内緒にしてくれる? 今度、店の女の子と合コン開くからお願い!」と、男達を適当な餌で釣って口止めをしていた。べろんべろんに酔っ払い、千鳥足で帰る男達を見送ってから、私達は舌を出して顔を見合わせた。それから、余っていたシャンペンで乾杯をして、「お疲れ様」と言い合った。
 
「ごめん、これ安物なんだけど」

 翌日。出勤するなり、ヒカルが私に紙袋を渡してきた。

「何これ?」

 私は、首を傾げて聞いた。

「いいから開けて」

 ヒカルに促され、私は包みを開けた。紙袋から箱が出てきた。その箱を開けると、薄紙に包まれた中に私が昨日壊した靴とほとんど同じデザインのエナメルのピンヒールが入っていた。

「昨日、靴を壊しちゃったから。お詫び」

「え、悪いよ。私が自分で壊したんだし。いいよ、あれ古かったし、寿命だよ」

「いいの、せっかく買ったんだから。それ安いから気にしないで。渋谷の地下街のおばさんしか来ないような店で三千円だよ。お買い得でしょ」

「でも」

「いいから」

 ヒカルがそう言って、私の手にその靴を押し戻した。私は履いていた靴を脱ぎ、ヒカルから貰った靴に履き替えた。サイズはぴったり。安物だけれど、新しいエナメルがぴかぴか輝いて店の照明に反射していた。

 女達が、私の足元を覗き込んで「似合うじゃん」「見るからに男を足蹴にしそう」「ちえりにぴったり」などと言い出した。私はそれに照れたり、「何だよ」と言い返したり、笑ったりしながら、靴を履いた自分の足を見詰めた。我ながら、なかなか似合っていた。

 ヒカルが、私の様子を満足そうに眺めながら言った。

「あのね。私、いっぱい勉強して、いつか、自分の力ですごいお金持ちになるから。世界の長者番付に載っちゃうくらいのお金持ちに。そうしたら、今度はもっと高い靴をあげるね。マノロでもジミー・チュウでもルブタンでも任せてよ」

 きらきらした瞳で、嬉しそうそう言うヒカルに、私は、照れ臭い気分になった。小声で、言った。

「これで充分だよ」

 そう答えたら、女達が身を乗り出して喋り出した。

「それなら、うちの店で靴買ってよ。いつか高級ラインのみの店舗出すからさ」

 まりかが、昼間働いている自分のアパレルショップを押してくる。

「ついでに私にも出資してよ。滅茶苦茶癒されるサロン作るからさ」

まなが、エステサロンの開業資金をヒカルからせしめようと算段を始めた。

「偉い教授とか紹介して。もちろん男前のね」

 純は、相変わらず男の事しか考えていない。

「私、留学したいな。ニューヨークの専門学校でメイク学びたい。奨学金出してよ」

 ゆうかがそう言って、半年くらいでいいからさ、と続けた。

「じゃあ、いっその事、この店を買い取っちゃおうよ。で、店の名前を『腹黒い11人の女』に改名するの」

 あいが、ぽんと手を叩いてそう言った。

「それじゃあ客が来ないだろ」

 私は、あいにそう言う。

「いいじゃん。お金あるなら殿様商売で」

 あいが、そう言い返した。

「結局、私達がだらだらして酒飲んでるだけなんでしょ」

「今と変わらないじゃん」
 
 女達の声がいつものようにあちこちからしてくる。そんな風にまたいつものようなくだらない話をして、私達は笑い合った。誰も「世界の長者番付に載れる程の金持ちになれる訳がない」とは言わなかった。その話が、もし宝くじが当たったらという話と同じくらいに、現実味がない事は誰もが知っていた。けれど、もしかして、ヒカルなら。私達は、何処かでそう思っていた。
 
 あのお坊ちゃん共の席に向かったヒカルの後姿は、勇猛果敢に光り輝いていた。ヒカルはいつだって無言実行だけれど、少なくとも、私達はその心の中をわかっている。あの時、あいつらをそれでも笑顔で帰したヒカルに、出来ない事なんて、きっとない。甘い考えかもしれないけれど、私は、そして店の女達の誰もが、その時、信じていた。


 こちらは、2012年に出版したわたしの二作目の長編小説『腹黒い11人の女』の第1回です。
 書籍が絶版になったので、noteで再掲載しています。

Amazonでは古本でなら取り扱いがございます。
奄美大島では名瀬の楠田書店さん、及び空港の楠田書店さんにまだ在庫があるかも?
そして、わたしの手元にも在庫がございます。
もし、書籍をご希望の方はコメント欄かメッセージ欄からご連絡ください。

最近、荷物の整理をしていたら、この話のモデルになったキャバクラの写真が出てきて懐かしい今日この頃。そして、あの頃書ききれなかった書きたかったことも書けそうな今。

再掲載を終えたあと、『腹黒い11人の女、その後』と題して、その後の話も書きたいと思います。

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。