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井上荒野「生皮」を読んで

5月25日、朝日新聞の文芸時評で、文芸評論家の鴻巣友季子さんの書評を読んで、井上荒野『生皮』(朝日新聞出版)をすぐ買った。小説教室で起きた性暴行を描いた作品だ。興味を持ったのは、鴻巣さんが、被害者だけでなく、「暴行者自身にでさえ」感情移入する瞬間があった、「精神的な八つ裂きのような苦しさを伴なう読書だ」と書いていたからだ。

井上荒野自身が鴻巣さんにツイッターで「『共感した』って褒められると私は何かに負けた気がするのでwとても嬉しいです」とレスを返していた。井上さん、ご安心ください、まったく共感なんかさせてくれてないです。「共感」なんて感想じゃ許されない作品。いろんな人物のいろんな立場の都合や思い込みが縦横無尽にはりめぐらされている。各章、「現在」「〇年前」の時系列の上で、フォーカスされる人物が変わるのだが、自分がどの登場人物の「皮」を被った誰なのかわからなくなる。でも、第二章7年前、主人公の咲歩が「小説講座」で、彼女が暴行を受けることになる元敏腕編集者月島に気に入られるシーンでわたしは急に思った。

ああ、私もこれ知ってるやつじゃん。

実は、ずいぶん前になるが私も「元敏腕編集者」の主宰する「文章教室」に行ったことがある。30代会社員で子育て中、自分のやりたいことをやれる時間もあまりなくクサクサしていたし、文章を書くことが好きだったし、誰かに認めてもらったりほめてもらえる場所を探していたのかもしれない。課された課題をメールで送った後参加してみると、初めての参加者は私だけだった。なんか、中年男女15人くらいのサークルのような感じで、みんなフレンドリーだった。ほのぼのしたヒグマのような大きな男性が真ん中にいて、それが先生だった。

ヒグマは私があらかじめ提出した文章をとにかくベタぼめした。すると私のナナメ前にいた私と同じ年くらいの女性が小声で「お気にじゃん」と言ってきた。ほめられてるし、それも自分の書いたもののことだし、悪い気はしなかった。

ちょーしにのった私は、その短い文章をある小さなエッセイコンクールに出してみた。するとしばらくして「最終選考に残りました」の連絡がきた。2回目の文章教室の前の課題提出時にヒグマにそれを伝えると「すごいね、入賞したらお祝いだ」と言われた。ちょーしにのってたし、その「お祝い」に何も違和感は感じず、とても光栄に思った。

結局、賞は何もとれず、ヒグマに知らせると「じゃあ、残念会だね」と言われた。そうだ、あの文章のこと、先生は認めてくれていた。なのにうまくいかなかったから残念だ、残念会なんだと思って、まったく文章教室とは関係なく、ふたりで飲みに行くことになった。なんかヘンなことじゃないかという考えがよぎるたびに、「だって元有名雑誌の敏腕編集者だし。それにヒグマだし」と思い、自分に「ね!だからいいでしょ」と言い聞かせて、行った。

飲みの席でヒグマは、私の話を面白そうに聴き、「君は絶対に物書きになる」「もう少し足りないものは僕が教える」「僕のアドバイスを聞いてくれれば絶対に君は成功する」という言葉を繰り返した。「物を書く」ことに喜びと自尊心を持っているものにとっては、甘美に響く言葉だった。ヒグマがほんの少しだけ、マーロン・ブランドに見えてきて・・・

というはずもなく、ヒグマはヒグマだったし(マーロンだったら良かったということではないけど)、私は帰らねばいけない時間なことに気づき「あ!帰ります」と立ち上がった。すると、ヒグマーロンは、信じられない言葉を口にした。

「うん。今度はもっと大人な感じの、エッチなとこに行こう。君の文章が格段によくなるように僕も頑張るから」

・・・私は「あ!タクシーきた。さよなら!」と叫んで実車中のタクシーと知っててつかまえるふりで車道に飛び出して、他の車にひかれそうになりつつそのまま振り返りもせず地下鉄駅までダッシュして帰った。

その後はよく覚えてないけど、文章教室には二度と顔を出さず、彼の著書である文章読本(愛読書だった)はすべて捨て、なかったことにした。だって、とにかく、気持ち悪かった。何も起きてなかったけど、とにかく気持ち悪かった。自分がその気持ち悪いワールドの一員として、その入り口に一瞬でも足を入れたことがイヤだった。

今日この小説を読むまでこのことはほぼ忘れていた。忘れていたというより、思い出したくなくて脳から取り出さないから、忘れたことにしていた。しかし、この小説の似たようなシーンを読んで、月島が自分の性暴力を「大人の関係、小説関係」と言うのを読んで、「なに、わたしの話に似てない!?」と思った。

いや、似てるんじゃない、とにかく恐ろしいほどによくある話なんだ、きっと。私みたいに何も起きなくてもギリギリの「キモい」思いをしたケースまで入れたらどんだけ。最近、映画業界でもテレビ業界でも、ていうか〇〇業界関係なく性暴力の告発の話が出てくるが、いきなり性暴力がたくさん起きたわけでも、声をあげるのが「流行り」なわけでもない。

この小説の中で、SNSで被害者である咲歩をハッシュタグ付きで批判する大学生は、恋人にセックスのことで意見されて、こう考えている。

最近の女はすぐこれだ、「ちょっと話してもいいかな」だ。女性誌やらweb記事やらで、そういうふるまいが推奨されているんだろう。

『生皮』

女性の「そういうふるまい」をウザがっている意見も多々目にする。推奨されているというよりもシンプルなファクトは、ネットで世界中が即時につながるようになったからだ。自分ひとりが苦しんでいるかのように思った地獄が、「恐ろしいほどよくある話」だとわかったことは、いろいろな声の背景にあるのではないだろうか。

痛みを感じたのは自分だけではない、何度も自分を責めて血を流し続けているのは自分だけではない、恥ずかしくて悔しくて、どうしようもできなかったのは自分だけではない。そういうことに気づける世界になったから何かが少し動き出す。小さな動きのひとつひとつが文化を変えていくのではないか。

この小説、月島のように、古い文化や自分のロマンチシズムに耽溺して知らない間に性暴力をしている人間こそが「悪」!!という二元論ではない多面的な視点もすごかった。けれど、彼の鈍感というか身勝手な美学はひどい、というのは前提で、主人公の咲歩や「月島のおかげで芥川賞をとった」とされている作家小荒間洋子には、こう言いたいと思った。

あなたたち、たぶん月島とあんな関係にならなくても文章を書くことを楽しめたり、すごい文筆家になっていたはずだと思うけど。

そしてそれはこれからいろいろな希望や野心を持って〇〇業界に入っていく若い人にも知っておいてもらいたいと思った。「月島」はどこにでもいる。自分の大好きなものを「月島」に踏みにじられたり汚されないように気をつけて。

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