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あなたがいてわたしがいる

わたしという人



ここ一年程度を振りかえると

目の前の人を通して自分自身に意識を向け、

目の前の人と自分の境界域を

行ったり来たりしながら

試行錯誤してきた日々。


共感と一体化してしまうことでの疲労

誠意と善悪への執着

役立ちたい思いと自己犠牲

自らの責任、役割意識と燃え付き、他責

とのバランスをとりながら

かかわることの意味を深く味わってきました。


目の前の方にかかわる自分の在り方を

教えてもらい、

自分に問い続けてきました。



イノチグラスという眼鏡をつくりはじめたとき、最初は師匠の真似から入りました。

真似ができず苦しみました。

知識と技術でなんとかしようとして、自分が相手への尊重がないことに気づきました。



自分らしさを探しました。

探せば探すほどないことに気づきました。

無いと前提して探すから、

無い現実を見せてくれました。



初めは言葉を発することのない小さいお子さんの目の測定は困難で、自分にはまだまだ無理だと思いました。


でも、なら大人は何故できると思うのか。

言葉にたよろうとしている自分、

子供は無力な存在だとどこかで思っている自分

に気づき、それではいつまで経っても

できないだろう。


じゃあ、目の前の子のためにできることは?と自分に問い、我にかえりました。

ただ、自分には失敗したくない恐れがあっただけなのです。

こどもほど真っ直ぐ感覚で応えてくれる素晴らしい存在だと思い出しました。



目の前の方に『何とかしてサポートしよう』とエネルギーを注ぎました。

お客さまは何とかしてあげないとなんともならない、という前提なので何ともならない現実を起こしました。


なおすとか、改善するとか、支援するとか、

言葉は受け取りにより、

発する人の意識により、

とても有害になると気づきました。


頼まれてもないのに、あなたのためにとか、してあげるとかほんまにいらん、と。

無意識ほど怖いものはなかったです。


してあげる、をやめると途端に無関心でいたくなる自分がいました。

そんな自分はだめだと責めました。


自分の傲慢さや自己不信の側面を目の当たりにして、人間としての未熟さを実感し、

無力だと絶望しました。


これで目の前のかたとかかわるのは無理だと、活動をお休み。

でも、自分は在り、何もしなくてもよいと知りました。


置き去りにしていた自分を観る機会が増えたことは、

あくせく働いていた頃には無かった視点です。


目の前の方の痛みや傷に触れていくと

同時に自分の傷と痛みに触れていると気づきました。



以前病院で働いていた経験から、

看護における寄り添うことや傾聴、

患者さんの観察や分析を重視する教えは確かに重要ですが


自分が置き去り自己犠牲に偏ることや

人を助けてあげていると過信したり、

周囲にあわせて自己欺瞞になること

が最大のリスクだと振り返り思うようになりました。


多くの方は目の前の方の治療やケアに尽力しながらも、業務に追われながら役割を果たしています。


ただ、看護の教育の中で寄り添いや傾聴、他者理解は重要視されますが、

自己基盤を調えることは果たしてどれくらいしたのか、、と考えると違和感があります。



ナイチンゲールやマザー・テレサが本当の意味での看護をそんな風に捉えていたとは思えません。

たぶん、きっと。知らんけど(笑)


寄り添いの中に奥深さがあります。

死を前に苦しむ方々を前に

同一化は自分がなくなりのみこまれます。

かといって、無関心でいるのは看護にはならない。

その人にとって本当に役立つことは?問いが必要なんだと今は感じています。

あるがままのその人をあるがままの自分で迎える。




働いていると

環境に馴染むために感覚に蓋をして感じにくくする=痛みを感じないよう淡々と業務をこなすか、

知識や技術をもった救済者だと自分を過信してしまうか、

寄り添いすぎて同一化してしまい疲労してしまうか、

自己満足の情熱により燃え尽きるか、

そんなことがけっこう多いと

自分の経験から感じています。



否定しているわけでもなく、

バランスをとりながら尽力されている方もたくさんおられるのは大前提です。



ただ、現場で苦しむ人を見てきたのも事実です。


バランスは一旦片方に片寄ると、ずっどーんとそこにはまり、抜け出そうともがけばもがくほど深くはまります。


私も何度ももがいていました。


それを見て、もがくと余計深みにはまるよと

一方的なアドバイスではなく

自然に気づかせてくれた人たちが私の周りにいたことは、本当にありがたいことでした。



落ちたらそこで何とかあがる。

落ちたことが良い悪いでなく、その機会を自分の貴重な体験に変えられるのかどうか。


そんな体験から、また広がる視点を得る。

バランスをとれている世界が広がる。


泥沼に自ら突っ込むのでなく、

泥沼にはまらないように避けるでもなくことを信じ、バランスをおきながらすすむ、

その繰り返し。



あなたがいて、わたしがいる



また、目の前の人と私はお互いに関係しあっていて、

自分の一方的な矢印➡️ではなく、お互い↔️なんだということも、バランスをとるうちに実感を伴うようになりました。


これは、すぐ自責になりやすく同一化してしまう自分には大切な感覚です。



自分の世界が広がり他者との境界を感じながらも、それを含む領域にはいることで

やってあげた、やってもらったではない

お互い様の人とのつながりを知る。


知らんけど、今はそんなことが大切だと感じています。



ある方が霧の中に入った私に金子みすゞさんの詞の記事を送ってくれました。


彼女の詞は、

あなたがいて私がいるということ。

私だけよし、ではなく

あなたとわたし、ちがっていい。

だけど、わたしも大切、あなたも大切ということを伝えてくれています。



幼い子供はそんなバランスをとらなくとも、たしも大切、あなたも大切という世界にいる。

でも、それを外からの圧で分断してしまうのでしょうね。


ただ、あなたとわたしを分けることも必要ですから、ここは子どもにかかわる人の成熟度に影響を受けそうです。


頭で分かっていても体験を行動化していないと、伝わらんもんなあ。

昔の人は自然にやっていたことが今は難しい。



言葉にすると簡単ですが、

人と自然との関わりの中で、実体験を伴うことで人は成熟していく。


深刻になりすぎず、でも真剣に

重くもなく、軽すぎることもなく

謙虚さをもちあわせ、卑下することなく

地に足をつけて。


人生は有限。

泥沼に突っ込んでばかりいたらもったいない。


だからこそ、

今を、

まわりを含めた自分を、

大切に生きようーっと。


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