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本と私と貫之と。

3度の飯より、本を読むのが好きだった。
本を読むと、自分の知らない世界を知ることができるのが好きだった。
子供の頃などは、疑問は全て本を読むことで解決していた。
今、わたしはふとした疑問は大体google先生にお伺いを立てる。
すると、へぇーそうなんだー、程度の記事が大体見つかり、大体それを疑問に対する解決としてしまう。
もし、Google先生がおられない時代であったなら、私はもしかしたら仕事終わりで丸善に駆け込んで、そのジャンルの本を少し立ち読みさせてもらうかもしれない。ううん???と、さわりを読んだだけでは納得せずに、少ない小遣いをはたいてその本を買い、自分の納得のためだけにピンポイントではない知識を得るかもしれないのだ。
そこから、さらなる疑問点を見つけては謎解き探検隊を結成して、本の海に漕ぎ出す可能性がある。
私は昔から、謎解き探検隊を結成しては謎の執着心を持って本の海に漕ぎ出し、自分なりの知識を見つけてきた。
その最たるところは、紀貫之であろう。


中学に上がったある日のことだ。
国語便覧なる書物が私の元に舞い降りることとなった。
私は国語便覧の中にある平安時代の装束や雅やかなその世界に心ときめかせたり、各時代の名著たちのさわりを読むことができる、この魔法のような本が大好きであった。
その中で、私の心を掴んで離さなかったのが、紀貫之であった。
今となっては、何がそんなに中学生の私の心を鷲掴みにしたのかの詳細を覚えてはいないのだけれども。
多分、仮名序の出だしに一目惚れをしたのだと思った。
やまと歌は人の心を種としてよろずの言の葉となりにける。から始まるあの名文だ。
それを読んだ私は、古今和歌集を読まねばならないという並々ならぬ勢いが芽生えた。
古文が得意なわけでもないのにである。
休日の部活帰りに紀伊国屋書店に行くも、手頃な値段の古今集がなかったような気がする。記憶が定かではない。
が、これだけは覚えている。
駅前通りの小さな古本屋で、岩波文庫の古今和歌集を買った。200円だった。
それは、アイドルの写真集を買う気持ちに近かった。
ページをひとつ捲れば、やまと歌は、が始まるのだ。
意味を理解しながら読んだかと言われれば、否だ。
中学の古文を武器に読むには古今集は難解である。
しかし、一首一首を、脳内で音にして読むと、平安貴族になったような気持ちになったものだ。
恋歌の往復に憧れ、酔いしれたりした。 
背伸びをしたいお年頃であるが、当時人気絶頂であったミスチルの歌詞の深さを語る中学生をよそに、私には紀貫之のその技巧と着眼点、いうならば言葉を操る力に、ほぅと桃色吐息を漏らす怪しいやつだった。
当時、私はヴィジュアル系バンドが好きであった。GLAYの月に祈るを聴きながら紫式部に想いを馳せていた(歌詞に、紫式部を引用してる)
ヴィジュアル系の歌詞はある意味、装飾的で古今和歌集に似ていると、謎のこじつけをしては、悦に入る拗らせぶりである。
それは、高校になっても変わることはなかった。
貫之との付き合いがこんなにも長くなるとは、当時の私に知らせてやりたいものである。
それもこれも正岡子規のせいであるとも言える。
高校生になった私も、相変わらず国語の時間の大半を国語便覧を読んで暮らしていた。
高校生になり支給された国語便覧は、中学のものの3倍はあろうかというボリュームである。
教科書界のディズニーランドやー!
ワンダーランドすぎて、現代文の時間も古文の時間も、暇さえあれば国語便覧を読み耽っていた。
読んでないページなどない。
胸を張って言える。
そんな中、高校も初期の初期に貫之警察を自負する私に、正岡子規「歌よみに与ふる書」は見つかった。
この書中に、貫之は下手な歌よみにて古今集は下らぬ集に有之候、などという文があることを国語便覧に見つけてしまったのだ。
私は激怒した。ハァァン???
メロスさながらの激怒である。
なんだと?アタシの貫之様を貶す奴は正岡子規であろうとも許さん。ノボール?知らん。
貫之ガチ恋勢過激派は、その歌よみに与ふる書を禁書とし、代わりに国語便覧に見つけたのが禁書の反論書ともいえる大岡信の紀貫之である。
しかし、書店を探せども探せども、この大岡信の紀貫之という本は見つからない。
Amazonも何もない平成の半ばである。
それでもどうにか私は、テレホーダイのISDNを駆使して見つけた古本屋ネットの中に筑摩叢書の目崎徳衛著紀貫之を見つけた。
猛烈に母にねだった。
どうにか聞き届けてもらって、どうにか注文して、どうにか手に入れた茶ばんだその本は、貫之の伝記でもあり、正岡子規のあの書物にも言及してある、まさに私の望む本だった。
ますます、私は貫之にのめり込んでいく。
母は、私がいないとこの人は生きていけないのなどと言いながら、ダメな男に引っ掛かるのではないかという謎の心配をするほどだ。
(この予言は外れるのは、また別の機会に)
高校生になって、ヴィジュアル系に傾倒を深めていながらも、一方貫之への愛も深まるばかりである。
私は、そんな高校時代を過ごして、國學院大学に進むこととなるわけだが、それもこれも貫之の存在あってこそだ。卒論も古今和歌集に絡んだものにした。日本文学科でもないのに。
國文学の貫之特集は必ず買っていたし、古今集特集もうっとりしながら読んだものだ。
なぜ日文に行かなかったのか、当時の私。
社会人になって、繰り返し繰り返し図書館で読むしかなった本をとうとう買った時の感動も忘れない。
貫之集・躬恒集・忠岑集・友則集が一冊にまとまったエキサイティングな全集だ。
高知に旅行に行った時は、もちろん土佐国衙跡に赴いた。何もなかった。タニシの蔓延る水路のへりを真夏の陽射しを浴びながら進んだ。そこは、田んぼの真ん中だった。
それでも、そこから見えた山並は、平安時代に貫之がみた山並みなのだろうと思えば、胸が熱かった。
そして、昨年、東京国立博物館。
国宝 高野切(伝 紀貫之筆←ちなみに伝であって本当に書いたのは違う人)を見て、テンションが爆上がりして、その前の椅子に座ってぼうっとしながら泣きかけたのは記憶に新しい。
私の、一生はきっと貫之と共にあるし、私の本棚から古今集のコーナーがなくなることはないのだと思う。
特別の特別な人、紀貫之。

そんな風に、私は粘着質に好きなものを追う傾向にある。
オタク気質なのだ(深追いしているジャンルは数多ある)
その気質を支えるものは、好奇心だ。
その好奇心を支えるものこそ、本であると言える。
好奇心を満たすものが、本であるし、まず好奇心が沸いた時点でそれにまつわる本を求めるくせがある。
知識を入れねば、なにも始まらないのだ。
そう思って暮らしてきた。

だが、最近、私は本を読んでいない。
あんなに好きだった本屋にも足が向かなくなってしまった。
アイデンティティが危機的状況であると気づかないまま暮らしていた。
先日、流行り病の妖精になった私は、本が読める読めるぞ〜時間があるぞ〜♪と不謹慎ながらもウキウキと積読を出してきたのだ。
もちろん、体調が悪いことも考慮すると致し方ない部分もあるが、昔なら読んでいたし、読めていたのに!
読めなくなっているのだ。
集中力が続かなくて、連続して没頭することができないことに衝撃を受けた。
これは、老化なのか。
それとも、怠惰に過ごしたことによる一時的なステータス異常なのか。
ロードバイクで坂を上るのは、日々上ってこそ。サボると如実に心肺は脆弱になり途端に前に戻ってしまう。
読書においても、それと似たような状況が私に起きているのではないか。
危機的状況に不安が押し寄せてきた。
iPhoneの中の文字だけ読んでいる場合ではない。
情報収集という面では、SNSに分がある。
手軽だ。
Google先生もWikipediaもすぐにある程度の情報を提示してくれる。
しかし、本を探しまわって、本を読んで、そうして知識を得ることとはまた何か別なもののような気がするのは、私が本で調べるしかない時代を生きたことがある名残なのだろうか。
いや、そんなことはないだろう。
先日、読めるうちに本は読んだ方がいい。老眼でどうにもならない、という話を聞いた。
それよりも、自分の今の症状は深刻な気がしてくるのだ。
まずいなぁ。と思ったところで思いついた。

会社の報奨で貰った、図書カード。
ちまちま貯めたdポイント。
合計4000円。
それに少しお金を出して、本屋で豪遊しよう。

意気揚々と向かった丸善でいざ本を目の前にすると、心配は杞憂なのではないかと思うほど、欲しい本の嵐であった。
その中で今日は、5冊ほど買って帰ってきた。
穂村弘 短歌の友人
穂村弘 野良猫を尊敬した日
恩田陸 なんとかしなくちゃ
西条奈加 亥子ころころ
万城目学 あの子とQ

さて、帰りの電車で早速私は、穂村弘の野良猫を尊敬した日を手に取った。
穂村弘は歌人である。そう、私の概念の中では貫之の末裔なのであるが、古今集からの和歌に親しみすぎた私には、近代短歌というものがいまいちよく分からなくもある。
そのよく分からないの最たる歌人であるようにも思う。
私はこの人のエッセイが大好きだ。
この人のエッセイを読むと、親近感や共感と共に、その着眼点や書き方に絶望的なまでに羨ましさを感じる。
ああ、今回も爆発的に羨ましい。
あああ!!!!!!
大丈夫だ。
私は、やっぱり、本も言葉も好きだった。
読めなかった本を見る。
それは、今読みたい本ではなかったのだろうと思う。
私は今日1日で、私の中で本は生鮮食品に近しいものだという発見をした。
食べたい!と買うが冷蔵庫に入れて忘れてると、翌日は気分じゃねぇんだな〜。と違う食品を買って帰ってきて、腐らせるなんてことがたまにある。
勿体無いから、理性で捩じ伏せて食べることが大半だけれども。
食事と違って、摂取しなくても死なないのが本だけど、でも摂取しないと生命とは別の何かが死んでしまうのではないかと思い至る。
そして、穂村弘のエッセイに触発されて、今これを書いている。
今年は、ちゃんと文章を書くことをしていきたいと思った。
そのためにも、ちゃんと本を読んで、筋トレをしていくことが大事だなぁとつくづく思うのだった。

人の心を種としたよろずの言の葉を摂取して、私の心のタネに水をやり、私の言の葉を育てねば。

貫之、私、頑張るね。


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