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就学前の景色と「準備性」

年度末、お疲れさまです。長い間noteの更新が出来ませんでしたが、就学を目前に控え、色々あるけれど、比較的落ち着いて日々を過ごせているあきこさんです。

背景には子供の成長があります。勿論、特性による生きづらさは色んな場面で顔を見せるし、調子の波もありますが、娘なりの成長が目覚ましく、頼もしいなぁと感じながら日々の生活を送れており、この状況を幸せだと感じています。この気持ちを忘れないように記録しておこう_φ(・_・ とnoteに向かっている次第です。

年少の夏頃に突然の激しい行き渋りや睡眠障害を伴う色々な不適応行動で苦しさを全力で訴えた娘。それをきっかけに医療や療育・心理の世界と繋がり、家族で様々なサポートを受けるも、調子の波により五月雨登園のまま年長の秋まで過ごしていました。

それが、秋(特に運動会のあたり)以降、「自分もクラスの仲間の一人で、皆と一緒にやりたい」という気持ちが強まった様子で、女子特有の人間関係のお悩みは解決しないままですが、大人に話を聞いてもらうことで折り合いが付くことが増え、気が付けば行き渋りも和らいでいる状態です。


スキップで移動する全身から、エネルギーが溢れている。。。ママは嬉しいヽ(;▽;)ノ


これまでの経験上からも、過剰適応と不適応の繰り返しは娘の(そして私自身も)十八番なので、私は出来るだけ日々のリズムを淡々とつくり、医師のアドバイス通り、頑張り過ぎないようにブレーキ役として、「つかれたら、やすむ」の練習を親子で一緒にしているところです。

調子を崩してからここまで約2年半、近くで娘の様子を見てきて、「準備性(readiness)」という言葉について最近よく考えています。何故、このタイミングで行き渋りが和らいだのか?もちろん、親としては、子供がどういう人間なのか知ろうと努力してきたし、医療や心理の専門家の力を借りながら、家庭内や保育園や療育、その他の居場所作りを含めた環境調整も頑張っては来た。だけど、何故、このタイミングで?ということに関しては、娘の内的な成長というか、「現在の環境に対する準備性が、娘の中で整った」という気がしてならないのです。そして、親は色々心配してサポートすることはできるけど、いつ、できるようになるかは、子供が決めるのだろうな、という気もしています。

例えば、愛着。外の世界で指示に従ったり、ルールを守れる大前提として、親子(特に母子)の愛着形成が十分にされていることが大切で、一般的に愛着形成は0~3歳台までに行われると言われています。でも、我が家の場合、愛着形成は4~6歳台(現在も継続中)により強く行われている気がしています。(愛着形成の遅れはASDあるあるの1つとしても有名ですね。)

上述の愛着に関する一般論は子供が生まれる前から知っていたので、私としては生まれてからすぐ、惜しみなく愛情を与えてきたつもりでしたが、「子供の側に受け取る準備性が備わっていたかどうか」という視点で考えてみることもできるな、と思うのです。

一歳半頃から、何処に行っても人見知りをせず、ママの手を振り払って自分自身の興味に向かって走り出し、誰にでも饒舌にお話し掛けていた娘。保育園も初日からスムーズに預けられ、3歳台まで毎日元気に通っていた娘が、4歳台で突然激しく行き渋り、家庭内でも分離不安で「ママがいい!」と暴れまくるほど激しく母親を求め始めた時が、彼女が「お母さんを発見した」(= 愛着形成のreadinessが整った)時、という捉え方もできるのでは、と考えています。

でも、他(readiness以外)の切り口での説明も、いくらでもできる( ˘ω˘ )


私は専門家ではないし、実際のところ、正解は解りません。また、化学や機械の世界と違って人間(しかも心の部分)のことなので、正解自体無いのだとも思います。

親としては環境を整えたり、働き掛けをしたり、色々心を尽くすわけですが、環境と相互に作用しながら、「いつ準備が整うか」は子供自身が決めることなのだな、と改めて実感した次第です。

新しい、小学校という環境への準備性がいつ整うかも、結局は娘しか決められないと思うので、その時そのときで良いだろうと思う選択をしながら、上手くいかなければ調整したり、変えたりしながら、焦らず、諦めずに成長を楽しみに見守れるだけの余白を持って過ごせたらいいなと今は思っています(´ω`)

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