恐怖症にまつわる雑談

集合体恐怖症についてのインタビュー(下)



I:インタビュアー(飯島暉子:高所恐怖症/acrophobia・巨大物恐怖症/megalophobia)
K:インタビュイー(匿名:集合体恐怖症/ trypophobia)


安心の公共空間

K「あんまりずっと考えてきたわけじゃないけど、都市って、結構潔癖症だと思うんだよね。人間がコントロールできないものが怖い立場だとすると、都市って居心地がいい。」
I「うんうん」
K「都市ってさ、人間がコントロールしようとしてつくってきたものじゃない?少なくとも今までは。これからの都市デザインの展開はわからないけど…今は、都市って人間が綺麗にデザインしてさ。つまり、不確定要素を排除しようとする感じ。僕にとっての都市は居心地がいいけど、ただまあ、それで自分はほんとにいいんだろうかと思うことがたまにある。」
I「都市のデザインってある程度量産されている感じがあるよね。施設に適した設備もそうだし、アフォーダンスとしての、男子トイレ女子トイレのマークとかさ。都市にはつまり…普及しているレイアウトがあって、そこに極端な違いはないと分かっているからこそ、そちら側(K側の視点)の人間からすると安心するっていうのは、聞いていると確かにそうかもと思う。」
K「うん」
I「自然に触れに行くと、人間の想像を超えた、めちゃくちゃな柄の花とかあるし。」
K「そうだよねー」


生存戦略


K「高所恐怖症は人間の生存本能から来てるって聞いたことがあって、集合体と人間の生存がどう関わっていくのかわからないけど、高所恐怖症の人からしたら、住居でもあるし、勤務先でもあるし、日常で避けられない建築に生存の危機を感じている状態ってどういうことだろうって。人のために造られているのに、それが恐怖対象って面白いなって(笑)面白いって言ったら変だけど、興味深い。」
I「その、高いところが恐いって感じるのは人間の生存本能に基づいているっていう話は、誰から聞いたのかは覚えてる?」
K「ああ、高校の時の同級生だね。」
I「へー!高校の同級生。すごいね(笑)」
K「いや(笑)ほんとにただの雑談でしたのを憶えているんだけど、多分そのひとが、高所恐怖症だったんじゃないかな。」
I「そっか。今私が関わっている友人の中で、あんまり高所恐怖症がわかりやすい人がいなくて、誰かとショッピングモールとか行くと、私は結構エスカレーターでも怖いってリアクションが出てしまうんだよね。例えば、出発点と到着点にあまりの角度がついていると、こう…乗ってすぐソワソワしてしまって。先が見えないことに。その時は、もう、苦痛に耐える感覚で乗り続けるの。」
K「うーん…?」
I「だけど、友人は全然手すりにももたれたりしないし、手すりを掴まずに会話したりできるわけなのね。だから、同じ時間、同じ場所で過ごしているのに、リアクションが全然違って…」
K「ああ!ああ…ハイハイ。そうだね。」
I「そういう相手から見たら、ちょっと私の反応は演技に近いというか、オーバーリアクションに見えているんじゃないかって思ってしまう。その、お互いの反応にあまりにも差があるから。」
K「まあ、でもそれもやっぱり、自分の中でのグラデーションもあればさ、個人差もあるじゃない。高所恐怖症はさ、僕の思い込みかもしれないけど、恐怖症の中では一般に認知されている割合が多い気がするんだよね。」
I「私もそう思う。」
K「だからみんなその概念を、一応は理解できると思うんだよね…うーん。でも、自分ではリアクションがオーバーに感じるんだね ?」
I「うん。今日、ひとりで銀座SIXに行ってきたんだけど、構造的に中央が吹き抜けになってるの。正確にはショッピングフロアまでがそうなっていて、天井から大きなアート作品を吊るしているって感じ。その周りをエスカレーターが走ってるって配置なんだけど。」
K「なるほどね」
I「だからエスカレーターに乗っていると、常に片側は吹き抜け状態になっているの。それが私からすると、“支えのない空間“を隣に、手すりを握りながら過ごすわけだよね。でも他の人はその状況を気にせずペラペラしゃべったりとか、そもそも空間があいていることを気にしていなかったりとか。結構こうしたリアクションの差を、日々体感することが多いかも。なんでこの人たち大丈夫なんだろうって。」
K「建築とかデザインで、制作段階でそれに怖さを感じる人が大多数になった時って、多分その建物はつくられない気がするんだよね。常に恐怖症がマイノリティだから成立してる。だからこそ恐怖を感じるというか…あとは…絶叫マシン。あれはデザインされた恐怖だけど、逆に恐怖を感じる人が大多数だから成立しているよね(笑)怖がらない人が大多数だと作られない。」
I「そうだね、マイノリティかどうかが成功と失敗に関わってくることはあるよね。」
K「うん、そう思う。」



わがままなのか手間なのか


K「“恐怖症”っていう単語の持っているイメージがさ、例えば他の単語だと、“障害”と違うのはさ、恐怖症はその対象から自分で逃げればいいじゃんって思われてる気がする。集合体恐怖症なら集合体を見なければいい、みたいな。そういうイメージを単語それ自体が持ってる気がする。」
I「私が人と会うためという別の目的を持って移動しているにもかかわらず、そのエスカレーターやエレベーターの一部が透明で、稼働中に外の景色が見えてしまうと、怖いわけだよね。で、迂回をしなきゃいけないとかさ。そういう抵抗がちょっと出ちゃう。例えば集合体恐怖の、コントロールできない自然物のドットなどを例に挙げると、ショッピングモールの二階に用事があるのに、アマゾンの植物かなんかの、不規則なドットが入った植物が一階のエントランスに飾ってあるとすると、恐怖の度合いはあれ、嫌な思いをするわけだよね?」
K「その例で行くと、ビジュアルの問題だから目を閉じればいいね。さっき自分で見なければ良いと思われてる気がするって言っといてあれだけど。(笑)あくまで僕のその例に限って言えば見なければ良い。」
I「ああ、なるほど。」
K「僕の場合はだけどね。見なければいい。だけどもしそこにいるのが、虫だったら…行けないと思う。(笑)そこを絶対に通らないとたどり着けない場合、気持ち悪いと僕が判断する虫だったら、それは通れないと思う。」
I「それは昆虫が嫌いではなくて、まだら模様のついた蛾が嫌いとか?」
K「そこは僕がまだはっきり判断出来ていないんだと思うんだけど、虫と集合体恐怖って、なんかつながっている気がするんだよね。一緒じゃない可能性もあるけど。だけど虫って、生態的にこの問題とつながると思うんだよね。足が多いとかさ、」
I「あー…」
K「目を閉じてもその場にそれが存在するってわかっている場合、より一層怖い。」
I「切り花も、切られた段階で死を迎えたと考えることもできると思うけど、植物よりも虫の方が怖いんだ?」
K「虫は動くと思っているからだろうね、僕が。」
I「確かに、ダニとかてんとう虫とか、複数でうごめくイメージがあるじゃない。アブラムシとか。」
K「そうそうそう、怖い。それもさ、集合体じゃん。うごめく感じ怖いね。」
I「さっきのコントロールの話からすると、切り花は人間が他所から移して好みの配置をしたものだから“コントロール内“じゃない?でも虫って、人間の予想とは違う不規則な動きをしたりもするじゃない。それが”コントロール外“として怖いのかなって。」
K「そうだと思う。虫のうごめきに対する怖さと、柄に対する集合体への恐怖が同じかは、まだはっきりとわからないけど、その判断には“コントロール外”っていう潔癖の感覚が大事な気がする。だってうごめいているやつらがさ、自分が通った瞬間に一斉に向かってくる可能性を考えちゃうわけよ。(笑)」
I「ああ~」
K「植物はそういうことはないだろうっていう風に思ってる。」


完璧主義者たち


I「いま検索エンジンから辿り着いたあるクリニックのサイトに書いてある、暴露療法っていう恐怖症の治療法のぺージを見ているんだけど、これはね、方法として最も行われるものらしいのね。でね、恐怖のヒエラルキー表を作るみたい。例えば高所恐怖症なら、何階から恐怖を感じるかとか。具体的な数値で測るらしい。それをしたのちに、最弱の恐怖値から体験させるらしい。高所恐怖症の場合、まず二階に行かせる。次に三階に行かせる。それを繰り返す…これつらいね。(笑)」
K「それはつらいね。それで治るのかな…僕自身、恐怖症を治そうとする発想がなかった。今の今まで。それがちょっと新鮮というか…」
I「新鮮味を持ったんだ?」
K「僕の持ってる恐怖症より、より生活に密接した恐怖症があった場合、それは治さないと生きていけない可能性はあるよね。少なくとも僕のレベルだと、治そうっていう考えはなかった。仕方ないというか…虫は怖いものっていうか。」
I「自分の性質として受け入れられるよね。」
K「僕レベルの症状で治療をするとしたら、それってより潔癖だなと思う。」
I「ふーん?」
K「やっぱり受け入れられないものを治療しようとするのは、うーん。やっぱり潔癖かな。」
I「治療や性質として受け入れるっていう個人の判断とは離れて、こうした二人の高所恐怖症や集合体恐怖症の存在について、公共空間を用いるときに一回議論になってもいい気がする。そういう余裕があってもいい気がする。」
K「なるほどね。」
I「さっきの治療が潔癖っていうのもわかる気がする。すべてを把握できないと不安、みたいな。」
K「治すことが間違いだと思わないし、恐怖症を前提に建物を建てるとか、議題としてそういうことがあがってみてもいいと思う。…なんか話していて、僕が、僕自身の整理ができている気がする。(笑)俯瞰して自分を見てみると、潔癖の部分が気になってるんだなって思った。で、潔癖症的な考え方の自分ってどうなんだって。」
I「そんな自分どうなんだっていう…」
K「そうそう…あ!あとね、潔癖ってある種の完璧主義なんだと思う。振り返ってみると、多分僕は完璧主義的なところがいままでどこかであって、それがここ数年で、自分自身に対して完璧主義って限界なのでは?って思ったことがある。」
I「うんうん…すごく同意する。」
K「で、その完璧主義と潔癖の結びつきを感じてきてるんだよね、多分。」
I「自分も完璧主義だった自覚があるから、今もまだそうだけど、把握ができないことが怖いんだよね。エスカレーターを例に挙げると、到着地点が見えない場合、どこに行くかわからないから怖いのよ。飛行機もさ、空ってもう自分が把握できるキャパシティを越えてるじゃない?海もそう。多分、自分が把握できなくなるタイミングで、恐怖が訪れるのかもね。」
K「確かに…体感的に、自分が把握できないサイズってことかな。」
I「そうだね…」
K「完璧主義…最近考えてたんだ、こんなこと。(笑)」
I「(笑)」
K「最近考えてたんだ。で、完璧主義を辞めたい。」
I「辞めたいんだ。」
K「多分そこは限界だと思うし、潔癖の考え方もすごく近いんだよね。っていうのを今話してて、思った。」
I「今?ハハハ(笑)」


2022年4月5日 通話
2022年7月25日 通話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?