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苦しかった人生の岐路

「女は25を過ぎたら売れ残り」
不適切にも程がある言葉だが、過去に存在していた言葉だ。

15年前、私が25歳を迎える時も耳にした言葉だったけど、体感として同世代は30歳までには結婚したいと思っている女性が多かったと思う。私もご多分に漏れず、30歳までに、と世間の波に乗るかのごとく目標を掲げていた。


私が都内から実家へ拠点を移したのは、25歳の時だった。販売員のお給料とシフト生活に立ち行かなくなり営業事務へ転職したのと、実家で生活していた姉が転勤で実家を離れるタイミングが重なったからだった。

たまに実家へ帰った時に、洗濯の畳み方の好みを全く知らないことに寂しさを覚えたのも大きな要因だった。実家に住むことで両親のことをもっと近くで感じたい、仲良くなりたいと思っていた。

地元に戻れば、何かしら出会いはあるだろうと甘く考えていた。誘われた飲み会はもちろん、仕事帰りに合コンにも積極的に参加した。しかし、一向に好きな人には出会えなかった。


28歳、目標年齢が目前に迫ってくる頃は、街コン・婚活パーティー・マッチングアプリ・お見合いと都内でも地元でも、ありとあらゆる出会いの場に顔を出した。

相手に選ばれるために、男性が喜ぶと言われる対応を本を学び、一般的に受ける服装へ総取っ替えした。自分という存在を押し殺して、「モテる人」になろうと必死だった。

しかし、マッチングしてデートに行くことはあっても、お互い2回目へ進む気持ちにはならなかった。

全ては、両親のためだった。両親が地元で結婚することを望んでいると知っていたし、それを実現することで両親の自慢の娘でいたかった。

周りの友達や従姉妹が、簡単に叶えていくその姿が、私には遠過ぎて絶望を感じた。出会いの場で精一杯自分をアピールしながら、今、目の前の男性が気に入ってくれる私は、一体誰なんだろう?と途方に暮れた。


29歳、地元の親友Rが結婚するとLINEが届いた。仲のいい5人組で、Rが結婚すると未婚は私とNだけ。当時Nには彼氏がいた。Rから結婚式の招待状を渡したいから集まろう、と誘われたが仕事を理由に断った。

Rの結婚が母の耳に入らないことを願った。母からの皮肉混じりの冗談を想像するのは容易かったし、今の私には簡単に受け流せないと想像がついた。それくらい追い込まれていた。


毎日が曇っていた。Rの結婚を喜べない自分も、Rの結婚を母に話せない自分も、誰からも必要とされない自分が惨めで涙が出た。

しかしRからの誘いも断りきれず、年末にNと3人で会うことになった。気が重かった。ただ嘘を突き通すこともできず、自分の気持ちを素直に伝えた。

嫌われると思っていた。もう今の自分が嫌すぎて、上手に繕うことは不可能だった。Rは意外な言葉をくれた。

「誰かの幸せなんて考えなくていいんだよ。自分の幸せを考えていいんだよ」

ハッとした。25歳以降の5年、私は両親への親孝行、両親が幸せになることが目標だった。そうすることが私の幸せだと信じていたのに、いつしか自分の心に大きな溝ができていた。


その後、Rの結婚を私から母へ伝えた。案の定「Nちゃんは彼氏がいるし、あなただけ残っちゃったわねー」と言われた。母はジョークのつもりでも、私の気持ちは傷ついた。

私が泣いたりするから、母も驚いていた。でも、猫を被ることはできず、のらりくらり本音を言えず過ごしていた時間に終止符を打った。

私はあの時、両親が自慢できる娘になる道を選べなかった。

自分を犠牲にすることが美徳のような風潮もあるけれど、誰かの理想を叶えるために自分を押し殺さなくてよかったなと思っている。だって、私の人生は私にしか歩めないから。


あの時のRの言葉を受けて、本当にやりたいこと、自分の幸せについて考え、私は今ハワイに住んでいる。

男性が喜ぶ対応も、一般的に受ける服装も全てを止めて、ありのままの私で生活している。
両親の正解ではないだろうけど、結婚して、子供も授かった。


誰の基準か分からない「一般的な年齢」や世間での「安全な道」らしきものに惑わされず、自分の心のコンパスにしたがってよかった。

私の気持ちを一番大切にできるのは、私だし、私自身が幸せであれば、きっと誰かにその幸せを分けてあげることもできると思う。


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