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連載小説『エフェメラル』#6

第6話  深層

 

 ラウラ。ユーヒには覚えのない名前だった。しかし、その名を聞いた時の心のざわつきは否定しようもない事実だ。

「ラウラって、誰?」

 自問のはずが、ユーヒは心の声をそのまま口にしてしまう。ユーヒがその名を知らないと分かったラジャンは、慌てて答える。

「いや、何でもないです。忘れてください」

 ユーヒは自分を落ち着かせるため深呼吸し、目の前にいるラジャンを観察することに集中する。褐色の肌、墨で描いたような黒髪。椅子に座っているため、背丈がどれほどなのかは分からない。顔の大きさや線の細さから、小柄であることは見て取れる。ジルからユーヒと同じくらいの歳だと聞いていたものの、幼さが残る顔と声が、ユーヒよりも年下であるかのような印象を与える。ラジャンに聞きたいことはたくさんあるが、まずは、ラジャンという人間を知らなくてはならない。

「ええと、ラジャン。改めて聞くけど、あなたはなぜ宇宙に出てきたの?」

「答えたくありません」

 そっけない返事だ。しかし、ジルに対する黙秘の態度とは明らかに違っている。ラジャンには、ユーヒと会話する意思がある。ユーヒはそう感じた。

「そうね。あなたと私は赤の他人で、私の質問にあなたが答える義務なんてない。でも、あなたは私を殺そうとした。その理由を、私は聞く権利があると思う。だから、教えて。なぜあなたは地球を離れて、私を殺すことになったのか」

 ラジャンは床をジッと見つめたまま動かなかったが、フウと小さく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げ、ユーヒの目を見て話し始める。

「妹の体を治すため。それが宇宙に出てきた理由です。妹を治すには金がいる。お金のためにあなたを殺そうとした。仕事だった。それだけです」

 単純で明快な理由。だが、ユーヒが納得するには不十分だ。ユーヒは質問を続ける。

「妹さんを治すためなら、地球でお金を稼げばいいんじゃないの? わざわざ宇宙に出てこなくても……」

「地球では治せない。そんな医療技術もなければ、そのための金を稼ぐ場所もねえ。だからおれは妹を残して宇宙に出てきた。傭兵になったのは、頭の悪いおれが、一番手っ取り早く金を稼ぐためだ。あんたが聞きたいことはそれだけか? これで満足か?」

 満足? その言葉にユーヒは苛立ちを覚える。

「満足なんてしない。じゃあ聞くけど、あなたは自分のやっていることに満足してる?」

 ラジャンは顔を歪めてユーヒに反論する。

「妹の体が治るなら、おれは何だってする。妹の幸せが、おれにとっての幸せだ。あんたにとやかく言われる筋合いはない」

 ラジャンの言葉を聞いたユーヒは、ハッと我に返る。なんでこんなに熱くなった? 過去にもこんなことがあったような気がする。既視感。
 他者のために自分を犠牲にすること。たぶん、ユーヒはそれが許せなかったのだと思う。これ以上、会話を続けるのは難しいとユーヒは判断する。

「他人の私に、こんなこと言われたくないよね。出過ぎた発言だった。ごめんなさい」

 そう言って、ユーヒはゆっくりと席を立つ。ラジャンに背を向け、部屋の出口へ向かう。部屋を出ようとドアノブに手をかけたとき、ラジャンが独り言のように話し始める。

「おれの故郷では、人は生まれ変わると信じられている。人が死ぬと、『アオ』と呼ばれる世界に行き、そこにいると言われる女神様に認められた人が生まれ変わることができる。輪廻転生。信仰上の思想です」

 ドアの前に立ち止まったユーヒは、ラジャンに背を向けたまま話を聞く。ラジャンは続ける。

「『宇宙には、女神様がいる』。月から来た人はそう言った。その女神様にお願いをすれば、転生を待たずして、人は生まれ変わることができる、と」

 現代の科学技術をもってしても、人を蘇らせたという話は聞いたことがない。ユーヒは再びラジャンの前に戻り、問いかける。

「その宇宙にいる女神様っていうのが、ラウラ様ってこと?」

 ラウラの名前を出されたラジャンは、少し迷いながらもその質問に答える。

「ラウラ様は女神様そのものではないです。女神様の生まれ変わりと言われていた、歴史上に実在した人物です」

 ラジャンが再度ラウラについて話し始めたとき、それまで身動き一つとっていなかったリンがラジャンをジッと睨んでいることにユーヒは気が付く。一方、リンの視線に気が付かないラジャンは話を続ける。

「ラウラ様は、人類が宇宙に進出する直前、おれたち一族の前に現れた思想家であり、指導者でした。もう400年以上前のことだから、当然、おれは見たこともない。じいちゃんから聞いた話では、ラウラ様は亜麻色の髪に、雪原のような白い肌と、宇宙から見た地球のような青い瞳を持っていたと。だから、あなたはもしかしたら……」

 そのときだった。ラジャンの発言を遮るように、リンが獲物を襲う肉食獣のようなスピードでラジャンの首根っこを掴んだ。そしてそのまま両手でラジャンの体を椅子から釣り上げる。ラジャンの体は、糸を切られた操り人形のようにリンの両腕の下にぶらんと吊り下がった。その状態のまま、リンはいつもの口調でラジャンに言う。

「これ以上、憶測で話すことは許さない」

 あまりにも冷静なリンの物言いにユーヒは恐怖を感じる。

「リン、やめて!」

 ユーヒの叫びはリンの耳には届いていないようだった。首を絞められたラジャンは声も発せない。ユーヒは部屋のドアを開け叫ぶ。

「誰か早く来て! リンが、リンがラジャンの首を!」

 ユーヒの声に素早く反応したジルがリビングから駆けつけ、ラジャンの首を持つリンの手を掴む。

「リン、やめなさい! あなた、自分が何をしているか分かってるの!」

 ジルの声を聞いたリンは、ラジャンの首を掴んだ手を緩めた。ラジャンは床に落とされ、その場でうずくまって激しく咳き込む。ユーヒは床に倒れこんだラジャンが無事であることを確認し、ホッと胸を撫でおろす。
 
「リンが感情的になるなんて……」

 ユーヒの言葉にジルが反応する。

「リンが感情的になるなんてことはない。そんなことはあり得ない!」

 そう言ったジルがひどく感情的になっていることにユーヒは驚く。

「ジル。リンだって人間だもの。感情的になることもあるよ」

 しかし、ユーヒもリンが何に対して感情的になったのかが分からない。ラジャンがリンを怒らせるようなことを言ったとも思えない。
 ラジャンを介抱するジルにユーヒの言葉は届いているはずだが、ジルは何も言わない。当事者であるリンに話を聞こうとユーヒは部屋を見渡したが、リンの姿はどこにもなかった。

 しんとした部屋に、困惑顔のエマが入ってくる。

「なんだ、何かあったのか? 叫び声が聞こえたぞ」

 エマは床に倒れたラジャンの姿を見て事態の深刻さを理解する。

「リンがやったのか?」

 ユーヒは無言で頷く。ジルはラジャンを見つめたまま微動だにしない。
 語りかける言葉を見つけられないエマは、呆然と立ち尽くすユーヒに歩み寄り、そっと肩を抱いた。
  


 月の着いたユーヒたちは、マイルス商会本社にいた。リンのラジャンに対する行為は、直後にジルからゲンソウに報告された。重要参考人として輸送されていたラジャンに対するリンの行動は、組織の規律に反するものだ。

「リンは1週間の謹慎。最終的にどう処分されるかはミジュ様の判断次第ね」

「謹慎処分で済むとは思えねえけどな」

 兵士としての経験から、エマは軍での規則違反がどれだけ重いものか知っている。しかも、参考人を護衛する立場だった者としては最悪の行動だ。組織の事情を知らないユーヒは、リンよりもラジャンが心配だった。

「ラジャンは大丈夫なの?」

「ああ、彼は丈夫だから。それほど時間がかからずに通常の生活に戻れると思うよ。あ、ごめん。私これから会議があるの。時間がかかると思うから、それまで街で時間つぶしててね」

 そう言ったジルはエマとユーヒに手を振って、マイルス商会本社のビルの奥へと消えて行った。ジルの姿が見えなくなったタイミングでエマがユーヒに話しかける。

「ユーヒ、お前と一緒に行きたいところがあるんだけど、付き合ってくれるか?」

「お、久しぶりに二人きりだからね。何か美味しいものでも食べに行く?」

「まあ、とにかくついてきな」

 エマはマイルス商会の本社ビルを出て大通りを進む。しばらくすると、街の地下層へ向かうための高速エレベーター乗り場に着く。エマは下層7Fまでの切符を二人分購入し、一枚をユーヒに渡す。ユーヒの故郷、土星区のティティスには、月のように地下まで開発している街はない。人口が多くなった街は、街を水平方向に開発せず、地下方向へ開発していく。そのほうが、宇宙空間に接する外壁を作る必要がないため、効率的に開発を進めることができるのだ。
 初めて月の下層に行くユーヒは、気分が高揚していた。陽の光が届かない世界は、どんな様子なのだろうか? エレベータのトンネルには一定間隔にライトが設置されているが、各層の駅以外は闇が続く。同じような光景を見続けていたユーヒは、だんだん自分が下に向かっているのか上に向かっているのか分からなくなる。そういう意味では宇宙空間と何ら変わらない。このままエマと二人、知らない間に地球に着いてしまうなんてこともあるかもしれない。そんな妄想をしているうちに目的地の下層7Fに到着する。改札を抜けて駅構内をしばらく進むと、駅の出口が見えた。出口から見える外の明るさに目が眩む。地下に来たことは間違いなかったが、駅から出たその空間は間違いなく『外』だった。不思議な気持ちだ。

「地下っていうから、てっきり暗いものかと思ってた」

 ユーヒは素直な感想を述べる。

「あたしも最初に来た時はそう思った。でも、こんな地下にも、人間は光をもたらしたんだ。大したもんじゃねえか」

 こんなに光があふれる世界だ。きっと美味しいものもあるだろう。ユーヒは期待に胸を膨らませる。エマはニヤつくユーヒの顔を見て、フッと笑みを浮かべる。

「飯を食う前に、目的の場所に行くぞ」

「え、ご飯を食べに来たんじゃないの?」

 ユーヒはここで初めてエマの目的がご飯じゃないことに驚く。目的地に向けて歩き始めていたエマに小走りで追いついたユーヒは、エマの顔を見上げて問いかける。

「どこに行くのよ?」

「ああ、そこの角を曲がったところだ」

 駅から真っすぐのびる道から右に曲がると、その道の突き当りに大きな学校のような施設が見えてきた。ユーヒにも馴染みのある意匠の建物だ。

「エマ、もしかしてこれって……」

「そうだ。お前もいたんだろ? 財団の施設」

 間違いない。正門と思われる入り口には、ミジュ・マイルスが創設したカミラ財団の紋章が掲げてあった。正門から施設に足を踏み入れたエマは、迷いなく施設の事務局がある建物に入っていく。受付にいる、初老の女性にエマは話しかける。

「エマニュエラ・コーディナルです。息子のルカ・コーディナルの様子を見に来ました」

 エマニュエラ。そういう名前だったんだ、とユーヒは心の中で呟く。そして聞き間違いではなく、明らかにエマは『息子』と言った。ユーヒはエマに確認する。

「息子って、エマの子どもってこと、だよね?」

「それ以外の息子ってなんだよ? 正真正銘、あたしがお腹を痛めて生んだ子のことだ」

 出会ったときから面倒見が良い姐さんだと思っていた。でも、まさかお母さんだったなんて。ユーヒは自分の頭の中を整理するためにしばらく黙り込んだ。何から聞けば良いのだろうか。そもそも、ユーヒはエマのことを何も知らなかったのだということを、今さらながら気づいた。珍しく黙り込むユーヒを見てエマが説明する。

「ここに息子を預けているんだ。今年でもう14歳になるかな。年に数回、息子の様子を見に来てる」

 エマの物言いに違和感を覚えたユーヒは言葉を選んでエマに問う。

「エマ。息子さんに『会いに来てる』んでしょ?どうして『見に来てる』なんて言い方するの?」

「言葉のとおりだよ。息子に会うことはない。遠くから、元気かどうかを確認するだけだ」

 事情がある。ユーヒはすぐにでもそれをエマに聞きたいと思ったが、事務局の女性が案内しているこの状況では、あまり込み入った話はできない。長い通路を進み、中庭を眺めることができる部屋にたどり着く。部屋の窓からは、芝生の緑が輝いて見えた。その芝の上で、ボールを蹴りあっている複数の少年が見えた。エマは、これまでユーヒが見たことがないような穏やかな表情でその様子を眺めている。

「この施設に息子を、ルカを預けるって決めたのはあたしだって記憶はある。でもな……」

 でも?ユーヒはエマの言葉を待つ。

「その時、自分がどんな気持ちだったのかってことが分からないだ」

「え、どういうこと?記憶はあっても、気持ちが分からない?」

 エマは困惑顔のユーヒを見て、微笑む。

「ちょっと長くなるけど、話していいか?」

 ユーヒは頷く。それを確認したエマは、ゆっくりと語りだす。

「ルカを施設に預けたのは13年前だ。その頃は、宇宙のあちこちで紛争が起きていて、傭兵の需要がとても高かった。あたしの旦那、つまりルカの父親は腕のいい戦闘機乗りだった。紛争が重要な局面になると、ご指名が入るくらいだ。あたしたちは兵士を養成する専門学校で出会った。傭兵の会社に就職して1年くらい経ったとき、子を授かって、あたしはそれからはしばらく休んでた。復帰するつもりではいたけど、復帰は、自分が考えているよりずっと早かった。旦那が戦死したんだ。ルカが1歳になった直後だったよ。復帰後すぐに、あたしはマイルス商会のある作戦に参加することになったんだ。報酬も高かったが、その分、かなりリスクの高い任務だった。だからあたしは作戦に参加する前に、もしものことがあった場合、ルカをカミラ財団の施設に預ける手続きをした。マイルス商会の仕事だったから、手続きはスムースだったよ。
 そして、その作戦であたしは戦闘機に乗り、争いの最前線に行った。そして見事に敵の戦闘機に撃ち落された。マイルス財団は、遺族に対してかなりの額の遺族年金を支払うことになっていたこともあって、撃ち落されたときも、まあ、ルカもどうにか生きていけるだろうと思ってた。
 あたしは一度そこで死んだんだ。状況を考えれば、間違いなく死んでいた。でも、その次の瞬間、あたしは機械の中で目を覚ました。死んでいなかったんだ。正確には、瀕死の状態から、マイルスの技術によって再生させられたということだった。後から聞いた話では、体の大部分が損失していて、再生にも1年以上かかったらしい。それが今のあたしだ」

 ユーヒはエマの話を、まるでおとぎ話のようだと思った。現実感がない。目の前で話しているエマの体は、人工的に再生したもの。そんなこと、信じられるわけがない。エマは再び話し始める。

「体は戻った。記憶も、ほぼ完全だった。でも、取り戻せなかったものもある。たぶん、それは人が生きていく上で最も大切なものだと思う。ユーヒ、それがなんだか分かるか?」

「大切なもの。たぶん、形のないもの?」

 エマは頷く。

「そうだ。あたしが取り戻せなかったのは『感情』だ。記憶は取り戻せても、その記憶に付随しているはずの感情は取り戻せなかった」

「だからルカくんに会えないってこと?」

「ああ。ルカを施設に預けることを、いや、ルカを残して戦争に行くことを、自分がどう感じていたのか。それが分からないんだ。自分のことなのにな……そんなことも分からなくなっちまった」

 窓の外の息子を見つめるエマは、ユーヒがこれまで見たことのない悲し気な顔をしている。そこにいるのは、ユーヒがいつも見ている強くて逞しいエマではなかった。ただ、息子のことを想う、一人の母親の姿だった。

「ルカくんには、エマが元気にしてるってことは伝えてあるの?」

「まあ、な。ただ、仕事であちこち回ってるから、会う時間が取れないっていうことにしてる」

「会いたいなら、会ったらいいんじゃないかな」

 エマはユーヒを見つめる。

「ユーヒ、お前は優しいな。でも、やっぱり自分を赦せないんだ。どの面下げてって感じだろ?」

 そんなことない、なんてユーヒには言えなかった。エマはルカくんのことを真剣に考えている。だからこそ、こんなに苦しんでいるんだ。

「ユーヒ、もう行こう。元気なルカの姿を見れたから、またしばらくがんばれそうだ」

 窓の外のルカは、まだ友人たちとボールを蹴りあっている。赤い髪の毛と周りから頭一つ飛び出た長身が、エマの姿と重なる。元気でいてくれればそれでいい。それが親としての心情なのかもしれない。でも、ルカくんの気持ちはどうだろうか? それは他人がどうこう言うものではないのだとユーヒは思う。

「ユーヒ。可能なら、あたしも一緒に地球に行こうと思う。旦那の故郷なんだ。もう一度、地球の空を見て、きちんと生まれ変わりたい」

「もちろん、私は構わない。ミジュ様もきっと了解してくれるよ。いや、エマと一緒じゃなきゃ地球に行かないって言う」

「まあ、ダメだったら、そんときはそんときだ。地球への荷物でも手配して、自分で勝手についていくよ」

 エマはそう言うと、窓の外にいる自分の息子向かって手を振った。そして、ユーヒと二人で事務室に向かって歩き出す。

「そういえば、そろそろ本社に戻っていいのかな?」

 ユーヒはエマに確認する。

「一度、ジルに連絡してみてだな」

 エマたちが話していると、不意に後ろから声をかけられる。

「あの、すいません。いましがた『ジル』とおっしゃってましたが、それはマイルス商会所属医師のジルのことでしょうか?」

 声をかけてきたのはメガネをかけた男性だ。歳は50歳くらいだろうか。胸のプレートから、施設の職員であることが分かる。

「ああ、そうだけど」

 エマがそう答えると、男性は嬉しそうな顔で話し出す。

「そうですか! 私、前に所属していた施設でジルの教育係をしていたんです。それで、ジルは元気にやっていますかね?」

「ええ、元気ですよ。仕事にも一生懸命みたいで」

 エマは当たり障りのない言葉を返す。ユーヒもそれに付け加える。

「リンも同じ職場でがんばってますよ。まあ、ちょっと今はがんばり過ぎてお休みしているというか、なんと言うか……」

 そう言ったユーヒに対して、男性は少し困ったような表情をして答える。

「あの、すいません。そのリンって名前の人は、ちょっと心当たりないのですが」

「え? でもジルは同じ施設で育ったって。姉弟みたいな関係だって言ってましたけど……」

「はて。私はジルが施設を出るまで10年近く見てきましたが、リンと言う子は周りにいませんでしたよ」

 ユーヒとエマは、思わず顔を見合わせる。この男性がウソを言っているようには見えない。そうなると、ジルがウソを言っていたというのだろうか。

「あ、ごめんなさい。私の勘違いかも」

 そう言葉を濁したユーヒは、男性に頭を下げて、エマの腕を引っ張りその場を立ち去る。

「エマ、これってどういうこと?」

「分からねえ。分からねえが、これはジルやリンだけの問題じゃねえ気がする。たぶん、マイルス商会という組織が抱えている問題なのかもしれない」

 二人は施設を出ると、高速エレベーターの駅に戻り、食事を済ませる。エマはジルに連絡してみたが、ジルは応答しなかった。

「会議が長引いているのかもしれない」

 エマの言葉に、ユーヒはただ頷くだけだった。


つづく


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