恵比寿ガーデンプレイス_190330_0001

1994年、恵比寿と母とメリークリスマス。【東京シモダストーリー第3回】

東京に生まれ、33年を生きてきた僕・霜田明寛が、消えゆく平成の東京を綴るエッセイの第3回です。
“平成の東京”であり“僕の平成”であり“僕の東京”……2000年(14歳)、2003年(17歳)ときましたが、今回はさらに過去の“9歳”へ……!


2019年の成人の日。僕は、俳優の中川大志さんの“はたちを祝う会”というイベントの司会をするために、恵比寿ガーデンプレイスに向かっていた。
大事なイベントのときは、キャラではないがタクシーで会場に向かう。
ガーデンプレイスの敷地の中にある会場には直接タクシーでは乗りつけられず、かつてTSUTAYAのあったあたりで降りて、しばらく歩くいていると、なんだか既視感を覚えた。
ここ数年とか、そんな直近の感覚ではない。中学3年生で代官山の塾に通っていた頃の来た記憶だろうか……いや、もっと前だ。
僕は、じっと記憶の奥底を辿った。


1994年のクリスマス。
その日の母は、なんだか嬉しそうだった。

春におこなわれた母のいとこの結婚式のときと同じ、子ども用のベストを着せられた僕は、母の格好を見て、これはよそ行きの何かなのだ、という予想はついた。

「今日は坂本龍一のコンサートに行くの」と母は言った。
小学校3年生の僕は「コンサート」というものが初めてで、その単語を聞いても具体的なイメージはわかなかった。

「坂本龍一」は家にCDやら写真やらがおいてあったので、音楽家である、という認識はあった。
さらに、テレビ棚の上にはレコードがたてかけてあって母は「あなたがお腹にいるときには毎日これを聴かせていた」と言っていた。
「YMO」という僕の生まれた頃に流行っていた3人組のもので、「坂本龍一」はそのうちのひとりで、当時から大ファンだった……といった話をされていたので、音楽家、というより母の好きな芸能人、という認識のほうが強かったかもしれない。


連れてこられたのは「エビス」という場所だった。

当時の僕には、小田急線が世界のすべてだった。
自宅のある祖師谷大蔵エリアから塾のある新宿エリアまでを横に貫く小田急線。
世界の端っこは新宿で、「エビス」は世界の外だった。

改札を抜けると、そこはちょっぴりだけ新世界だった。
何度も乗り継ぐ歩く歩道に、大げさに言えば、新しい大陸に渡るような気持ちになる。

そうしてたどり着いたのは城のような場所だった。
恵比寿ガーデンプレイス。その年の秋に開業したばかりの商業施設だが、もちろん僕にはそんな意識はない。12月の青く晴れた空がより城を城らしく見せる。

レンガの階段に並んで、待ち続ける。日も落ちかけ暗くなりはじめた頃、列がやっと動いた。


ホールのような会場の中に入ると、早くから並んだ甲斐があってか、前から2列目の中心という、子どもであってもいい席であることがわかる席に座れた。
「近い!」とテンションを上げる母。

会場が暗くなる。綺麗な白髪の男性が入ってきて、おもむろにピアノに座ると拍手が起きる。
この人が「坂本龍一」か……。
生で見る初めての芸能人に僕も不思議とテンションが上がる。

ピアノの演奏を聴き続ける会だということは聞いていて、飽きるのかなと思っていたが、全くそんなことはなく、よくわからないけれど、なにかこのピアノの演奏はものすごいものだ、と感じた。

世界の端っこだと思っていた新宿。新大陸に感じたエビス。でも、そのエビスの先にも、もっともっと世界はあるのだという、何かとてつもなく広がっていく感覚を覚えた。

旋律が頭から抜けない曲があったので、休憩時間に「あれなに?『ちゃちゃちゃちゃちゃん』っていうやつ」と覚えている部分を伝えると、母が「ああ、それね、戦場のメリークリスマスっていう映画の曲。さすが、代表曲はわかるのね」と妙に感慨深そうだった。

最後の曲が終わると、坂本龍一はピアノを離れ、ステージから降りて客席に近づいてきた。
会場から歓声があがる。
何人かと握手をしながら、客席を横切っていく。
ただもちろん、全員と握手をするわけではない。少しづつ、坂本龍一が近づいてくると、母は、僕を立たせ、手を出すように促した。
僕が勇気を出して、手を前に差し出すと、坂本龍一はこちらを向いて、ギュッと手を握ってくれた。
両手で覆うように、僕の手を握る。
手の両側から、強い感触。
そして、じっと僕の目を見て、笑いかけてくれた。
感じたことのない目の力に、どんな反応をしていいかわからないまま、その時間は終わった。

僕はどんな顔をしていたのだろうか。
暗い会場の中で、スポットライトが当たっていたせいなのか。
それとも、そう見えたのか。
坂本龍一の優しい笑顔だけが、僕の目の前で光輝いて見えた。


僕が握手をしてもらったことに、母は喜んだ。
すぐにその僕の手を握り、自分が握手したかのように声を出した。

もしかしたら、自分自身が握手をするよりも嬉しかったのかもしれない。
その喜びように、僕も、なんだかいいことをしたような気分になった。
「これで、この手にはパワーが宿ったね」

そう言われて、なんだか手を洗ってはいけないような気がして、終演後にガーデンプレイスの三越の中にあるトイレにはいったときも、僕は手を洗わずに出てきた。
手を洗わなかったことを告げると、母は「うん、それでいい」と言った。

それから母は「あなたが初めて握手してもらった有名人は坂本龍一」と、ことあるごとに言い続けた。
僕の成績などは自慢しなかった母が、そのことだけは親戚にも自慢していた。
あのときの感覚そのままなのか、それとも、何度も母が話すことによって、その感覚が強くなったのか、あの瞬間の手の感触は今も僕の中に残っている気がする。


2019年1月の恵比寿に話を戻す。
タクシーを降りて、イベント会場に向かう僕。当日まで会場の様子がわからないことだけが不安点だったが、レンガの階段を登りながら、そこが25年前に坂本龍一に握手をしてもらった会場だということに気づいて、なぜだか大丈夫な気がしていた。

“天の声”の役割だった僕は、会場の後方のブースから、声だけで会を進行していた。
暗いブースからマイクに声を放つ。
お客さんの後ろ姿を見ているだけでも、楽しんでいるのが伝わってきて
幸福を感じられる。
大人になった僕が、エンターテイメントでたくさんの笑顔が生まれる場所に立つ仕事をしたいと思ったことに、あの日、ここでしてもらった握手は関係しているのだろうか。

イベントの終盤、中川さんと、抽選で当たったファンの方が直接交流のできる時間が始まった。とある女性が、赤ちゃんを抱いて出てきた。

その瞬間、一瞬、25年前の出来事がよぎる。
僕はマイクに向かって、咄嗟にこう言っていた。
「中川さん、赤ちゃん抱いてみます?」
もちろん台本にはない流れだったが、中川さんは母親から、赤ちゃんを丁寧に受け取って抱いてくれた。初めての体験に中川さんははにかんで、会場からは“赤ちゃんを抱く中川大志”に歓声が起こる。

ブースのガラス越しに、緊張しながらも嬉しそうに高揚している若いお母さんの顔が見えた。
25年前、僕の母は、こんな顔をしていたのだろうか。

「あなたが初めて抱っこしてもらった有名人は中川大志」と自慢してくれますように。

この瞬間が、この親子の人生に残ればな、と思いながら、僕はまたマイクに向かって喋りはじめた。

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