見出し画像

書き手の意図とやら

日本で三本の指に入るプロインタビュアー伊藤秋廣が、コンテンツ制作にかかわる現場経験をコラム化しようというシリーズ。今回は「書き手の意図」についてサクッとイカせていただきます。

“ライティング”と“書き起こし”の違いは、書き手の意図の有無にあるという記事を目にした。前者にはそれがあって、後者にはない。そういう意味では、記事コンテンツだけでなく、あらゆるメディアにおいて取材者=表現者側の意図は働く。企画者や取材者の意図に沿って取材されて、恣意的に編集カットされ、取材を受けた側の意図とは違った形で表現される。取材された側の人間としては“なんか違うなぁ、まあ、いっか”って感じにならざるを得ない。自分の意図や思いや哲学が反映されず、なんとなく置いてきぼりになる。それは決して悪いことではないと、取材者=表現者は信じている。いや、むしろ、それこそが正義だと断言する人もいる。特にレガシーなメディアとか報道関係者ほど、そのような傾向というか、こだわりが強いように思える。彼らの長年の経験から、“TVではこう表現すると視聴者に伝わりやすい”“こういう雑誌記事にすると反響がある”等々。ベテランのディレクターや編集者が言うのだから間違いなかろう。その経験知はかけがえのないものだし、非報道側の僕らとしては、そのセオリーが正しいか、そうでないかの判断もつかない。だから取材を受けた人も、それを受け容れるしかない。“私たちは表現者ではなく、単に番組の中で数分だけ紹介されるネタのひとつであり、表現者は報道側に立つ彼らだ”と。

そんな関係は、これまでもずっと成立しているわけだし、お互いに満足しているのであれば、誰も文句を言ったり批判するようなことではないけれど、その関係性の中に、インタビュアーである僕の役割はないし、興味もない。僕の表現者として意図なんて、そんなに価値がないというか、インタビューイーの意図を恣意的に編集できるような見識もなければ、そんな権威でもない。僕はあくまで、インタビューイーの代弁者であって何らかの意図を持った表現者ではない。インタビューを受けてくださった方の内面を埋もれて自覚されていない本質を引き出し、それを等身大で言語化する。追求すべきは表現力ではなく、価値発掘力だと自覚する。いかに内面を吐露してもらうか、その方が考えていることを、その方自身の言葉で言語化しやすいようにサポートできるかだ。一度言語化された、その方の本質を編集して、それぞれの媒体に合った形でコンテンツ化すればいいと思う。僕はその方の心や思いの源泉のもっとも近いところにいて、コンテンツ素材としての魅力を調理しやすい形に整える役目でありたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?