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日常がもつ「深さ」について『石原吉郎詩文集』

『石原吉郎詩文集』は、彼の詩から、『望郷と海』に収録の重要なエッセイなどがまとめられており、石原吉郎はどんな詩や文章を書いたひとなのか知ることができる。本書には「1956年から1958年までのノートから」という日記のような体裁の、短文をまとめた文章も収録されている。なにかを論じたものではない。その日思ったこと、考えたことが書かれているだけである。しかし、短い文章であるが、とても内容豊かであり、石原吉郎の思想が表れている。

たとえば、私は次の文章がずっと心に残っている。

深い生き方というのは、毎日の生活にくよくよしないで、いつももっと「根源的な」ことを考えているということとは、どうもちがうような気がする。そういうことをまったく考えないようになることが深い生き方であるはずはない。

「1956年から1958年までのノートから」

「根源的な」ことを考えることこそが、思想において「深い」ように見える。しかし、そうではない、と石原吉郎は直観する。むしろ「毎日の生活にくよくよ」することが、「深い生き方」につながっていくのでは、と考えるのだ。
読んだ人ひとりひとりが解釈することであるが、わたしはこう受け止めた。「根源的な」、あるいは「本質的な」でもいい。そういった理念の世界にのみ浸ることが、思想を、人生を深めるのではない。理念の世界には、人間がいない。人間の世界とは、自分の考えを認めない他人と出会ったり、偶然に左右されたりし、思い通りにいかないことを繰り返す世界である。つまり、理念の世界には、「つまづき」がないのである。
この「つまづき」こそ、自分の思想や生き方に、新しい展開をもたらすのではないだろうか? 「つまづき」とは、自分では予期できない、どうしようもない偶然である。そしてそれは、自分の外部にあるものでもある。外部という、自分の持っていないものを取り込むことによって、思想や生き方に変化が生まれ、新しい展開につながっていく。理念の世界に閉じこもっていては、新しい展開=深さが生じることがないのである。

石原吉郎は、前回の記事でも紹介したように、シベリア抑留という特殊な経験を経て、詩や文章を書くようになった。しかし、特殊な経験だけでなく、そこからの出発を願い、日常においても立ち止まり、自身の経験を見つめた。



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