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汽車と読書と近代化  永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生』

 電車のなかで新聞の一面を読み上げるサラリーマンがいたとしたら、どうなるだろう? おそらく、誰かに注意をされるだろうし、駅員を呼ばれて、電車を降ろされるかもしれない。なぜなら、書くことも憚られるくらい当たり前のことだが、電車のマナーに違反をしているからだ。大声を出すような人もまったくいないわけではないけれど、それはあくまで例外であり、電車のなかでは静かにすることが常識になっている。

 しかし、汽車のなかで新聞を読み上げる人々が、明治初期には存在していた。永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生』は、こうした意外な読書風景を取り上げ、日本の近代化を浮かび上がらせる。

 読書の近代化を推し進めた要因のひとつは、じつは鉄道だった。著者は一見結びつきそうのない鉄道と読書の関係を、様々な事例とデータを挙げながら分析していく。
 鉄道は明治5年(1872)に新橋-横浜間で開業して以来、明治20年代から30年代にかけて、鉄道が全国網化していく。利用者も年々増えていき、なんと明治40年(1907)には年間利用者数は1億人を超える。この年に田山花袋は『蒲団』を発表するが、作品には停車場や汽車の様子が描かれている。その前年は、二葉亭四迷が『其面影』を東京朝日新聞に連載し始めた年であるが、汽車を使った往来が描かれている。この頃には汽車は一般的なものになっていた。
 鉄道を利用し始めると、移動時間に本を読む、いわゆる車中読書の習慣が生まれた。車中読書で読まれるものは、新聞、雑誌、旅行案内などであった。最初は様々な新聞が読まれていたが、同時期に小新聞、大新聞が報道重視の新聞に切り替わり、その差異がなくなっていく。そのため、読まれる新聞も同じような内容のものになっていった。

 ちなみに、汽車内の車中読書の前史として、人力車の読書が挙げられる。じつは人力車に乗りながら新聞を読む人々もいたのだ。乗り心地も快適とは思えず、読みにくくはなかっただろうか……と思ってしまうが、人力車の車内にもサービスとして備え付けられるほど普及していたという。また、車夫から新聞の読み聞かせを依頼されることもあったそうだ。
 明治初期の読書は、基本的に音読であった。家族の団欒のなかで子どもたちや女中が集まり、草双紙や新聞が声に出して読まれ、書生において、漢籍を暗記するために文字を声に出して読む「素読」が当たり前だった。音読の文化が主流であった頃は、駅の待合室や汽車のなかで新聞を音読するひとたちもいた。しかし、当時であっても迷惑なことにかわりないため、音読をする人々は他の乗客から顰蹙をかった。車中読書によって、音読は黙読に淘汰されていくのである。駅という西洋からもたらされた公共空間の論理と近世以来の身体の衝突と捉えると、近代化の光景といえるものであり、いまの私たちの土台が生まれる瞬間でもある。

 鉄道がもたらしたもうひとつの変化として、東京の出版物が地方でも読まれるようになったことが挙げられる。明治30年代以降は、鉄道が全国網になり、東京で出版した本が地方に送り届けられるようになった。また、並行して取次業者の創業も相次ぎ、新聞や雑誌などの運賃の優遇制度も確立されたことも、この供給体制に拍車をかけた。
 このことは、地方読者が地域の伝統的な読書文化から引き離され、東京発の活字メディアを読む読者に再構成されることを意味する。例えば、いままで戯作などを読んでいた人々が、活字で印刷され、しかも近代文語文や言文一致体で書かれた小説や新聞を読むようになる。これまでとはまったく異なる自己形成となるだろう。そして、「その結果、彼等の意識は地域共同体を越えて、国レベルの問題関心を共有するようになり、中央活字メディアの受け手としての〈読書国民〉へと変容させられていった」と著者はいう。
 鉄道によって、地方であっても数日のうちに新聞も雑誌も届けられるようになった。これはニュースをほぼ同時的に知ることができることを意味する。同じ活字メディアを同時的に読む「私たち」=読書国民の共同体が生まれることでもある。明治30年代の読書の風景は、日本の近代化そのものなのである。

 本の読み方は、時代によって変わる。黙読が当たり前かというと、そうではなかった。そして本を読む在り方は、いまも変化し続けている。孤独な営みであった黙読が、いまでは読んだ感想を全世界に一瞬で配信でき、読んだページ数や線引きすらシェアされるようになっている。読書習慣は再構成され続け、また新しい読書習慣が生まれつつある。


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