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ことばは変わる、生き残る、いまも 柳父章『翻訳語成立事情』

日本はことばを他国から輸入してきた歴史がある。最初は中国。そして、明治時代においては西洋から。しかし、輸入と簡単に書いてしまったが、ことばは物のように運んだり置き換えたりできるものではない。

最近では、Googleなどの検索エンジンを使っても、ことばを簡単に翻訳してくれる。左の入力フォームに単語を登録すると、右のフォームに翻訳結果が表示される。一見、ひとつの意味を2つの言語で置換しあっているようにみえる。しかし、それはあくまで翻訳したことばが定着した結果にすぎない。明治時代において、西洋のことばは日本にはないことばばかりだった。だから、日本人は、新しいことばを発明したり、既存のことばでも、新しい意味を付け加えたものとして使う必要があった。そのような話を、「社会」「個人」「恋愛」などをテーマに論じたのが、柳父章の『翻訳語成立事情 』(岩波新書)である。

著者によれば、「自然」は、明治時代になってから意味が変容したことばだという。「自然」はもともと「おのずから」という意味をもったことばである。その「自然」を英語の「nature」の訳語として当てはめた。「自然」も「nature」も人為的・作為的なものに対立する意味を持つので、この意味においては翻訳として適切だった。しかし、問題は「nature」は、主体とは対比的に、客体を指すことばとして使用され、美術において主体と対立しながらも両立する概念であった。たとえば、西洋では啓蒙主義の時代を経て、「nature」は科学の対象となり、客観的な対象として扱われている。そのような科学的な態度を文学に適用したのが西洋の「Naturalizm」(自然主義)であり、そこには主体と客体が明確に分離した発想がある。一方、日本の伝統的な「自然」はそのような主客の関係を解消する概念(あるいは「境地」)である。老子の有名な文句に「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」というものがあるが、「自然」とは、主客を未分化にしたまま使うことができた。このような伝統的な意味があったため、「自然」は「nature」の翻訳語にしたことで、今までにない矛盾した意味をも抱え込んでしまったのである。

この矛盾が原因となり、文学の世界では「自然」をめぐった論争や批判が繰り返された。たとえば、田山花袋の考える「自然主義」の理解について、中村光夫は繰り返し批判をしている。要約すれば田山花袋が「自然主義」を「自然を自然のまゝ書く」ことと理解しているが、もともと西洋の「Naturalizm」とは上述のように「自然科学」的な態度で社会を観察し、作品化することなので、田山花袋の「自然主義」からは科学性やリアリズムを担保する表現の技術が欠落してしまっているというのが趣旨である。※1 著者は、このような批判が発生するのは「ことばの意味のすれ違いという出来事」だと捉える。つまり、田山花袋の「自然主義」理解は、伝統的な「自然」として理解をしているが、中村光夫は西洋的な「nature」の意味で理解した立場から批判をしているのであり、このすれ違いの根本には翻訳語の問題があるのである。※2

他にも「権利」ということばも、テーマとして挙げられている。「権利」は「right」の翻訳語である。「権利」についても「自然」の場合と同じく、翻訳によって新しいことばと既存のことばの意味が混在してしまうことになる。「right」には「力」といった意味合いはなかったが、翻訳語に「権」の字を当てたことで、「権利」は同時に「権力」を含むことばになってしまった。こんにち、私たちが使う「権利」ということばに「力」のニュアンスが含まれているのは、このことに由来する。

しかし、この「力」のニュアンスによって、人々に「権利」ということばが普及しえたという見方もある。著者は明治10年代の自由民権運動を取り上げ、次のような指摘をする。

かつて幕末―明治初期の頃、西周らによって、rightがまず公法上の意味で紹介されたこともあって、その後、訳語として定着した「権」ということばは、後の民「権」運動にも、おそらく意外に深い影響を与えていた、と私は考える。民権家たちは、政府の「権」に対して、自分たちもまた、本質的にはそれと等しい「権」を求めた。たとえば、民権家たちの求めたのは、まず参政権など政治にあずかる「権」であった。基本的人「権」のような「権」はあまり問題にされなかった。 そして、求められていたのがrightであるよりも多分に「力」であったために、それは比較的容易に理解され、支持された。とくに旧士族たちを惹きつけたであろう。

ことばはその時代の人々とのあいだで使われ、定着していく。あるいは廃れていく。西洋の概念と一致しているかどうかは、関係ないのである。むしろ誤訳に近いものが人々の心をつかみ、残っていくこともあるのだ。

このように翻訳語は既存の意味を混在させながら、普及していった。その時、誰もがこれらのことばの意味を十全に理解して使っていただろうか? 著者は、そうではないと考える。むしろ、理解されないことがことばの普及において重要だったとさえいう。

著者によれば、翻訳語には未知の言葉を受容させる「カセット効果」があるという。カセットとは小さな宝石箱を意味し、「中味が何かは分らなくても、人を魅惑し、惹きつける」。中国に始まり、明治時代においても、海の向こうからきたことばを、ありがたがった。そして、よくわからないまま使っているうちに日本のことばとして定着していくのである。

なんだか笑い話のように聞こえるが、著者の主張には説得力がある。なにより、このカセット効果は、どうやら過去の話でもないらしい。ビジネスの世界に目を向けると、「DX」「Web3」「SDGs」といったことばが並ぶ。これらの具体的な中身がイメージできているひとは、果たしてどのくらいいるのだろうか。

いずれにしろ、社会はこのことばの実現に向け、動き出している。国が、企業が、乗り遅れないようにと喧伝している。とにかく、広めることが大事だ。中身はあとからついてくる。カセット効果はいまも健在なのである。

※1 要約は、本書の引用部だけでなく、中村光夫『風俗小説論』(新潮社
、1958年)も参照して記述している。
※2 中村光夫は、田山花袋の自然主義の理解を浅いものとして捉え、それに続く私小説の流れを批判しているが、西洋的なリアリズムを重視したところからくる評価であり、この点の妥当性については改めて検討しなくてはならない。

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