猫田道子 『うわさのベーコン』 後篇

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『うわさのベーコン』がただの下手な小説に留まらないのはどうしてなのでしょうか?

 ひとつは、とても丁寧に書かれていることです。

 作者は奇をてらうわけでもなく、また読み手を挑発したり、小説を揶揄する意図もなく、ただ素直に書いているようにみえます。自然に書いたらこうなった、という素朴さを感じます。
 です・ます調で書かれているのも、その語法がぴたりときたからでしょう。そうした点も、読み手に対する敬意を感じさせます。

 また、作者の人柄やセンスに不思議な魅力があることも確かです。かなり風変わりなところがあるのは否めませんが、天然ならではの厭味のなさが行間から滲み出ています。
「文体は心の窓」と言います。ある程度の長さの文章になると、書き手の人格が多少なりとも出てしまうものです。そこから察するに、なんだか悪い人ではなさそうだな、と妙に好感がもてます。

 そしていちばん大きなことは、何かどうしても表したいことがあるのが伝わってくることでしょう。それがなんなのかはうまく掴めないのですが、たしかにここには何かが込められています。

 それはおそらく無垢な何かだと思います。これほど無垢な想いが込められている文章というのは、なかなか出会えるものではありません。

 拙い文章というのはそこら中に溢れています。子供の書く文からはある種のイノセンスを感じられますが、往々にして短すぎます。逆に長い文を書ける場合、なまじ文章力が身についているため、どうしても手慣れている感が出てしまい、無垢さは薄れてしまいます。
 そうしたパラドクスがあるわけです。そのパラドクスを奇跡的なバランスで回避し、成立させているのが、猫田道子の文体ではないでしょうか。

 とはいえ、これは一回きりのものです。本書が最初で最後の著作となっていることからもわかるとおり、この先はありません。まともな文になってしまえば、魅力は失われるし、同じままでは読むに耐えない(これ以上読む必要がない)からです。
 そういうアクロバティックな成立の仕方をしている小説だと思います。

 そして、高橋源一郎も指摘しているとおり、ここには言語が立ち上がる際のモーメントが読みとれます。

 音楽に喩えるとわかりやすいと思います。
 この作品は、さながら音と音楽のあいだに位置するといえるのではないでしょうか。

 音というのは一音では音楽になりません。音と音が連なり、ひとつの流れとなって、初めて音楽になります。
 では、音が音楽になる境目はどこなのでしょう? 一つの鍵盤を延々と叩き続けたとして、それは音楽といえるのでしょうか? 
 その疑問に答えるのは簡単ではありません。ある種の現代音楽やノイズミュージックがやろうとしているのは、そうした問いに答える試みでしょう。

『うわさのベーコン』は、文章が成立するかしないかの境界線に位置する極めて稀有な作品です。それゆえ、高橋源一郎の琴線に触れたのではないかと推察します(現代詩にルーツを持つ高橋源一郎の言葉に対する関心のツボをついたのは、なんとなく頷けます)。

 長々と書きましたが、実をいうと、僕としてはそれほどぴんときませんでした。
 興味深いとは思うけれど、こういうものはアウトサイダーアートと同じで、見立てる人がいて初めて成立するものです。逆に言うと、見立て抜きだと、ただのめちゃくちゃな文章にしかみえません。おそらく、少なからずの人が「なに、これ?」で終わるのではないでしょうか。

 そんなわけで、きわめて判断のむずかしい作品だと思います。

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