猫田道子 『うわさのベーコン』 前篇

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 2000年に太田出版から発売された短篇集。高橋源一郎がいろいろなところで絶賛していることもあり、手にとってみた次第です。

 えーと、正直いって、どういえばいいのか困ってしまいます。

 というのも、ふつうに考えるととても読むに耐えないものだからです。誤字脱字はもちろんのこと、言葉の誤用、文法の間違い、視点のブレのオンパレードです。基本はです・ます調ですけど、それすら統一されているわけではありません。はっきりいって、めちゃくちゃです。

 このような本がどうして出版されたのでしょうか?
 経緯を調べてみると、どうやら新人賞の応募原稿のなかから編集者の目にとまり、『QUICK JAPAN』というサブカルチャー雑誌に掲載され、反響を呼んだのがひとつの理由のようです。そのメチャクチャ具合がおもしろい、と。なんだか90年代っぽいノリです。

 さらに、高橋源一郎が様々な著作のなかで大絶賛しているのも大きいかと思います。
 たとえば、高橋源一郎はこんなふうに書いています。

「わたしは、ただ言葉を、『うわさのベーコン』の言葉の運動を見ています。その言葉は、どんな「規則」にも従わず、無意味に動いているように見えます」(『ニッポンの小説』)

 小説を構成している要素を解体していくと、あたりまえのことですが、言語が残ります。言葉(単語)という要素が組み合わさり、文という単位を構成し、文というユニットが集まり、段落や章というさらに大きな塊となって、ひとつの小説となります。

 ふつう僕たちは小説を読むときに、言葉を構成する規則(文法)や語法にはそれほど注意を向けません。それは当然整序されているものとして(無意識に)考えているため、もう少し上のレイヤーのこと(文体やストーリーや文章の流れなど)に目を向けます。

 しかしほんとうのところ、言語を規定しているのは定形的なルールではなく、もっと有機的で得体のしれないものです。

 言葉には定義があります。そのため、どこか固定されたもの、きちんと構築されているものという印象があります。少なくとも、絵や音といった表現と比べると、ずっと定形だと思われています。契約書や法律といった誤解の余地を少なくしなければならない媒体が、文章で表されることを考えてもそのことがわかります。

 けれども、それは言葉が定形であることとイコールではありません。

 辞書について考えればわかります。ある言葉を調べるために辞書を引くと、必ずべつの言葉で説明されています。その説明されている語句を引くと、またべつの言葉で説明されています。
 言葉の意味というのは相互参照によって形づくられています。それはつまり、言葉は単体で成立せず、常に関係性のなかでしか存在しないということです。

『うわさのベーコン』の文章は、文章が立ち上がる瞬間を捉えたような文体といえます。どんな人の書いたものでも、推敲前には多少の間違いが含まれるはずです。そこを時間をかけて彫琢することで、可読に足りる文章になります。
『うわさのベーコン』の文にはそれがなされていません(おもしろさを損なわないために、あえて校正もされていないようです)。
 そのため、めちゃくちゃな文章なのです。

 この手の文章は現在インターネット上に溢れていると思われます。ネット上の文章はその性質から、特に推敲したり、校正を受けなくてもアップすることができるからです。探してみれば、そうした小説などいくらでも閲読できるでしょう。

 そうした文章と『うわさのベーコン』との差はどこにあるのでしょうか?

 実務的な側面からすると、編集者の目にとまったことがあります。運がよかったことは否定できません。
 仮に『うわさのベーコン』がネット上の小説投稿サイトにアップされたとしたら、おそらく高い確率で世に出ることはなかったでしょう。現代ではそうした作品は星の数ほどありますから。
 いまほどネットが広まっていなかった90年代という時代と、編集者の目にとまった運は大きな要因です。

 しかし、それだけでは片づけられないと思います。やはりここには何かがあります。

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