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食堂のおばちゃん、早6年

名古屋大学の南部食堂にお世話になって、早6年が経ちました。
娘が4月に中三に上がるんだから、そりゃそうだ。
娘が小学校3年生になった年に、最初は名市大(名古屋市立大)の
川澄(医学部や看護学部、病院が立っている所。地下鉄桜山駅の
目の前)校舎の食堂にパートが決まって勤めていました。

3ヶ月経った6月のある日、名市大の各校舎を束ねる店長兼
統括マネージャーがいわゆる「試用期間が終わるからどこまで
できるのか見るわね」というわけで、ある種の試験がありました。
名古屋大学のようにとても広いわけではなく、名古屋大学でいうところの
鶴舞(つるま)の医学部附属病院内にある医学部食堂と同様、店に来る
お客さんのターゲットはとても狭いです。となるとどう頑張っても
持ち場が専門というわけに行かず、オールラウンダーを求められます。
これ、きついんですよ〜。私には。

特に一番悲しいくらいに痛いのはカウンター。前線に立つと
千手観音で聖徳太子にならなければならないという。
一つのこともままならない私には悲劇的。
なので、視察が終わった後、店長に言うことを決めました。
「すみません、私、ご迷惑を絶対にかけるので辞めます」

意を決して辞意を伝えると、「それはもったいない!」
意外でした。でも、「確かに、カウンターの作業を、
一生懸命している姿は見ていてわかる。けれど、臨機応変に
タイミングよく後ろへ追加の注文したり、お客さんの注文を
周りに捌いたりするのって苦手で苦しそうな様子だったね」
と、前線部隊に立つのは合わなさそうなことはわかって
もらえました。
その後、「ちょうど、同じ連合の(大学生協の東海地区の集まりで
情報が共有されている様です。世の中狭いからな、そりゃそうだ)
名大で、人が欲しいって情報聞いたから、話つけとくから来週でも
打ち合わせしに行って欲しい。転籍の話、つけとくから」と、何と
店長はそんな驚きの助け舟を出してくれました。
あれよあれよと言う間に異動の話はまとまり、7月に入って割と
すぐ名大へ異動しました。形式的には名市大を退職してから
名大へ働き出したことになっていますけどね。

名古屋大学は他にも食堂がたくさんあります。
また、私はどう言うわけか人生3度目の名古屋大学でのお仕事。
最初は大卒後すぐ、昔でいう鉄鋼系の研究室の秘書バイト。
(事務補佐員となってるのですが、慣例的に研究室に一人
秘書がいて、研究室のボスである教授やメンバー達の事務処理や
講義のためのプリント印刷の補助など目まぐるしく働きます。
代わりに書類を事務室に出しに行くこともしょっちゅうあるのですが、
ボスがどんな性格かで、仕事がとても楽な場合と、振り回されて
忙しい場合と極端に分かれます^^;)
その時地下鉄は東山線本山駅まで。駅を出たすぐにバス停があり、
校舎のあるバス停までの距離が約1km。ですが、住所通り「本山」
なので、すぐ上り坂!バスが来ると乗ってました。行った直後だと
悲壮感で登山。研究室の私の居場所は3階でしたから、最初から
トレーニングでした。

年齢が似ていた子達ばかりの上に、どういうわけか奇縁が多発。
教授は私の父と同学年で血液型B型、小学校の同級生の弟が
研究室に所属していたり、中学校時代の同期の弟と同級生の子が
いたり、私と高校時代同級生だったという子もいましたし、
私の父と実家が近い高専出身の優秀な編入生もいたり、
エジプトから研究員さんがやってきたのですが、手助けを
すべく話していたら、書類に何だか見慣れた住所が。
「あなたご一家は私のご近所だ!誰それさん、ご存知?
私の小学校の同級生だ」と言うと、「同じフロアだから、
よく質問しては答えてくれてお世話になってる人だよ」とのこと。
その後も、結婚して住んだアパートの10歩北に、研究室時代の
メンバーのご実家があったことを思い出して連絡したら
世の中狭いねってことになりまして。この間に、砂田橋から
名古屋大学まで伸び、ついては、2004年10月に新瑞橋から
名古屋大学まで全部、ま〜るく繋がりました。帰りに、バスで
大学から桜山、または吹上で降りて帰宅していたのが全部地下鉄で
帰れるってすごいなぁ!と感動した記憶があります。

2度目は結婚後に鶴舞の附属病院にあります病理部という場所です。
切り出しや検査を補助したり、検査した後のプレパラートを
出したりしまったりする仕事をしていました。ここでも
事務補佐員。医学部の病理科と連携しています。
工学部の文化と医学部の文化はやはりちょっと違う気も
しますね。しかも、病理部は一番の違いは仏様も運ばれる
ことがあります。(仏様と書いたのは、事件ではなく、
病気で入院中の患者様が、珍しい病気などの理由で他界
された後、患者様が生前に、または遺族が了解のもと、
主治医と合意の上でご遺体を覗いて色々と記録することが
ある部署なのです。献体でもないし、またいわゆる検視
ではないのですが、この言い方が一番かなぁ。)
パートの面接の際に、ご遺体が運ばれることがあるんですが
いかがですか?と(今でも覚えている)お話を先生から受けて、
「私は11歳で伯母を白血病で亡くしてから、どういうわけか
3年または2年に一度親族の誰かの葬式を出しています。
最初の伯母の時だけむくみがひどくて隠されていましたが、
それ以外はさっきまで働いていた、昨日まで動いていたという
パターンが多かったのです。慣れているという言い方はおかしい
とは思いますが、田舎のことですのでお葬式も家族総出で
やることですし、人が亡くなったからと言っても、叫んで
びっくりということはないです。いつかは死ぬんだから、
という気持ちで淡々としています。」と回答したら、
採用されました。

それでも、今日仏様が来る(来た)ということで解剖の
話が行われると、担当ドクター達は淡々と見るとこ見たり
記録して、仕事をこなすのです・・・・が、いざお昼の
時間になると、「あかん、今日はご飯を食べる気が失せる。
魚の煮付けも見たくないな」と、えらく人間的なぼやきを
していました。(そういう話になると、だから「お精進」、
つまり精進料理が存在するんだということがよくわかります)

第一子妊娠がわかり、先輩秘書さんに相談した上で
ボスのドクターに話すと、なかなか時期的にうまくいかず、
半年で退職することになりました。悪い場所ではなかった
ですよ。なんかあったら、病院ですしね!ただ、このボス
(すでに5年ほど前に定年退職されてます)結構気難しい
方でしたね。
また、先輩秘書さんから、ドクターキャラの見分け方を
教わったのですが、「外科はわりと体育会系、内科は
神経質な方が多い、救急や他の科は瞬発力がある」傾向が
あるとのこと。え〜、それって人によりけりじゃない?と
思ったのですが、気にして、それとなく見ていると、
確かに外科系は元気がいい。小児科のドクターは(もちろん
病気の種類によるんだけど)学校の先生や保育園幼稚園の
先生方のように元気が良かったり面倒見が良かったり。
面白いですね〜。

そして2018年7月から、名古屋大学の食堂に、洗浄室を
「戦場」(笑)として働くことはや6年。その間に、
地下鉄が本山までの時代を知っているよと、バイトに
入ってくれてた院生くん達に話していたら、「あら、
こんなところに本山原人がいた!」だって!
本山原人(もとやまげんじん)って、何で私は
ネヤンデルタール人みたいなノリで言われるんだ!
なんて笑ってました。本来、本山原人とは、名古屋大学を
象徴する言葉で、今のモットー「勇気ある知識人」に
通じるような、自分の思うように学問を自由に学び、
生かして自分のペースで走っていく自由人を指す
言葉だったようです。なのですが、いかんせん
本山から大学のキャンパスまでの1キロというのが
近くて遠いし、起伏が激しい!これでは、本当の意味の
原人と言われてもしょうがないですね。

働いて長いパートの先輩さんでも、地下鉄が繋がってない
頃は知らない方が多いので、私はこれまた特殊な人です。
それにしても、コロナ禍を経てバイトの面々が、自分の
子供達のような年齢の子が増えました。自分の年齢の半分!
(だって、私の従兄の長男坊だって、この3月に大学を
卒業した22歳ですから)早いものですよ。

同じ団体に3度も働く機会を得るというのも、我ながら
珍しいと思います。

でも、最初に秘書を務め、その後も名城大学薬学部の後援会にも
行きましたし、こうやって大学の敷地に身を置いている自分というのは
私はとても心地いいと感じています。

秘書の頃は、学生くんと年齢が同じかプラマイ一歳二歳という
ことで、「学業を免れた学生」気分でいたなぁ。
ボスが自由人だったので、秘書室に私の後輩や友達が
訪ねてくるのも歓迎してくれましたしね。

流石にあれからもう20年経っている(大卒は2003年3月)ので、
変化はたくさんありました。子供も上は14歳、下の息子は10歳です。

アルバイトとパートタイムと派遣職員しか経験のない
私の職歴ですが、発達障害ながら、よく頑張ってると
思っています。

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