光ある道へ

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今年の六月の初め、大阪で大きな地震が起こったとき、私はそのニュースを衝撃的な動揺を受けつつ興味深く見ていました。ちょうどその地震が起こる数日前の五月の末、私は偶然にも日本で大きな地震が起こるという予言を耳にしていたのです。その予言は世界的にも名の知れたブラジルの預言者、ジェセリーノが発したものでした。彼は何度も予言を的中させるという実績を持っていたので、私は「地震が起こる。あと数日で。」と半ば興奮ぎみでその日を待っていました。そして彼が予言した日よりもわずかに早く、本当に地震が起こったのです。彼の予言は若干のずれがあったものの、その力はやはり本物であると言わざるを得ないでしょう。そのとき奇跡はこの現実世界で本当に起こったのです。

しかし、2018年という年を振り返るとき、その奇跡はほんの始まりに過ぎなかったとも言えます。この衝撃的な出来事を発端として、ある者達は覚醒へと導かれ、次なる大きな試練が待ち受けていることを予期していました。その者たちは日本をはじめ、ヨーロッパやアジア、アメリカ大陸などに散らばりながら存在し、ジュセリーノが夢の中で見たのと同じように、今まさに大きな災害が起こっている、その現場に立たされたのです。

ある者は全身を貫くような衝撃とともに突然大地が揺れ動くのを体験しました。またある者は地響きを伴って荒れ狂うように迫ってくる大津波の前に立たされました。そしてまたある者はマグマのような炎が大地を燃やし、人々を呑み込むさまを目の前で見ていました。

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みなさん方の中には、ある人物を通して、九月の始めに北海道地震が起こることを事前に知っていた人もいることでしょう。あるいはその大地震の直後に、なぜか大津波が押し寄せてくると突然語り出した人がいたことを知っている人もいることでしょう。ご存知のように北海道地震では津波は起こりませんでした。しかし、同じ九月の末、そして今からほんの数日前の十二月の下旬、インドネシアで大きな津波が起こり、多くの死者を出すという悲惨な結末を招いたのです。

インドネシアで最初の大津波が襲ったとき、何人かの人たちはすでにマグマのような炎が大地を覆って多くの人たちを呑み込み、苦しみに満ちた声がうねりのように大地に響きわたっていくさまを、まさに目の前で直接見ていました。そしてその人たちは半信半疑ながらも、まだ起こっていなかったアメリカ カルフォルニア州で起こった山火事のことを周囲の人たちに語りだしたのです。残念ながら、その人たちの言動は受け入れられることなく無視されました。人々にとってその話はあまりにも非現実的で理性を欠いた言動のように思えたのです。しかし、実際に北海道地震の翌月である十月に山火事が発生し、その炎が人々の予想をはるかに上回って燃え広がり、最終的に88人の命が失われる結果になりました。

みなさん方はこれらの出来事がすべて偶発的に起こったもの過ぎないと考えるでしょうか? たしかに「予言」というのは科学的に説明できるものではありませんし、そういうものが本当にあると信じること自体、どこか怪しげで危険なことのようにも思えます。しかし、その一つ一つの出来事を振り返って考えてみるとき、私にはそれらの出来事がたんに偶発的に起こったものものではなかったように思えるのです。日本で起こった二度の地震、インドネシアで起こった二度の津波、そして東京23区分の面積を焼き尽くしたアメリカの山火事。それらは何らかのつながりがあり、「意味」があるように感じられられるのです。

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大きな災害が起こったあとで、私たちはそれを予期していた者たちにこう言います。「なぜもっと早く警告してくれなかったのか。あなたがもっと真剣にそのことを訴えてくれたのなら、多くの人たちの命を救うことができたのに。」と。非常に愚かしいことに、私たちにはその者たちの声を聞く耳を持っていませんでした。科学的に根拠のないもの、非論理的で理性の欠いたようなもの、目に見えるはっきりとした証拠のないもの。私たちはそれらをみなひとまとめにして「ばかげた空想の物語」として扱ってしまうのです。

しかし、こうして大きな災害が起こった今、私たちの考えていたことは大きな誤りを含んでいたと言わざるを得ません。私たちはそのものたちの話を聞いたとき、仮にそれが非科学的なものであっても、真実を含んでいるときがあることを認め、謙虚に耳を傾けるべきだったのです。それと同時に私たちは自らにこう問いかけるべきだったのかもしれません。「私たちは本当に正しい進化の道を歩んでいるのだろうか? もしもそうなら、この言いようのない息苦しさはどこから生じてくるのだろうか?」と。

2011年に東日本大震災が起こったとき、私たち日本人は二度とこのような悲惨なことを繰り返さないことを心に誓いました。そのとき多くの人たちはこれまで私たちが知らず知らずのうちに進めてきた文明の進化に初めて大きな疑問を抱いたのです。しかし、それからわずか七年という歳月を経て、その想いはしだいに風化しつつあります。

あのとき、私たちは生活の利便性よりももっと大切で根本的なものの存在に気づきつつありました。そして多くの失われた命に報いるためにも、私たちの知らないところで、望まない方向へ進んでいくことを断固として阻止しようと固く心に決めていました。そういう意味では、あの大きな災害は私たちの心を、根本的な生き方そのものを見直す契機を与えていたと言うこともできます。そしてそれと全く同じことが、2018年に起こった多くの災害にも言えるのです。

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今年の六月に大阪で大きな地震が起こったとき、いったい何人の人が自らの進んできた道を振り返り、かつて抱いた想いを思い出したでしょうか? そしていったい何人の人が立ち止まり、再び正しい方向へと歩みだしたのでしょうか? 

非常に残念なことに、そのとき私たちはこれから何が起こるのかも知らずに、「予言は外れた。そんなばかげたことはあるはずがない。」とたかをくくっていました。私たちの科学以上に超越した力を持つものはないと傲慢な態度をとり続けていたのです。

そしてその三ヶ月後、今度は震度七の地震が北海道を襲いました。ジュセリーノの予言は確かに正確な日時と場所をいい当てたものではありませんでしたが、すさまじい衝撃を伴った地震が日本で起こったという点においては極めて正確であったといえるでしょう。少なくとも彼の予言は私たちに災害に注意することを促し、それに対処する時間的余裕を与えたと言えます。

予言とは本来そのように人々に注意をうながし、大きな危険に備えさせるものです。それが当たったとか、外れたとか、そういうことよりも、私たちはなぜその危険が迫るように定められたのかを自らに問いかけるべきでしょう。現代人に欠けているのは、人間と自然との間に横たわる意志を謙虚に汲み取ろうとする姿勢です。

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2018年には多くの災害によってたくさんの命が失われました。そのあまりに大きな悲しみによって立ち上がることができないほど絶望に打ちのめされている人もいることでしょう。人生には時として支えきれないほどの苦しみが訪れます。

しかし、その悲しみは個々の人間の心だけに留まるべきではありません。私たち日本人が感じた地震への脅威は、それが起こる前にすでに海外で体験されていました。インドネシアで起こった津波も、アメリカで起こった山火事も、それが起こる前に全く同じ体験をした人たちがいました。本来であれば遠く離れた場所で起こった災難に過ぎなかった出来事が、その者たちの心の中では我が身に起こった出来事として共有されているのです。

そこに国や人種、宗教の垣根はありません。それを体験した人たちは、仮にそれが夢の中であったとしても、等しく同じ苦しみ、恐怖、悲しみ、後悔の念を抱きながら今を生きているのです。それは、一つの予言が当たることよりもはるかに奇跡的な出来事だといえるでしょう。

ジュセリーノの予言から始まった奇跡は、今世界中に散らばりながら新たな奇跡を生み出しつつあります。彼らは自らの使命に気づき、私たちが再び正しい道を歩めるように何かを語り出そうとしています。

どうかみなさん、彼らの声に耳を傾けてください。そしてそれを自らの心の耳で聴きとってみてください。2019年を、そしてこれからの未来を光あるものにしていけるかどうかは、私たちが自身がその声を聴きとれるかどうかにかかっているのですから。


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