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【詩小説】桃源郷の鬼

辺り一面に群生していたれんげ草に身を沈めて雲を眺めていた私は高揚していた。

漂う甘い春の香りに色がついて見えた。

剥き出しの潤った舌の色。
後を追いかけてやって来たのは味わいを溢さない小さな突起の集合体。
触れずともざらついているのがわかった。
私は酔いしれる方を選んだ。
粘液が桃の果汁のとろみで果肉を守る皮の産毛は指で剥いた。
あの湾曲した桃の形。
私は人差し指で頬をなぞってみた。
そして深呼吸を繰り返した。
無言で十秒数えて肺いっぱいの甘い季節の風をゆっくり腹のへこんでいくのを意識しながら吐き出していた。

甘美な春と一体となった気がして何か大きな塊を抱きしめたくなった。

私の体ひとつ。
他には何もなかった。
私は私を抱きしめた。
両手の温もりが肩の骨を伝う。
小刻みに声が漏れそのまま身を丸めてうずくまった。
シロツメクサの膨らみを潰して膝をついて唇を噛み締めた。
瞼を閉じて見えたのは大きな桃だった。
そのふくよかな桃がゆらゆらと近づいてくる。
私はいつの間にか大きな桃を愛しく包み込み離すまいと強く抱きしめていた。

ふと我に返った。
眠りから覚めた感覚に微睡んでいた。
目を開いてはいた。黒より深く、夜よりも暗い世界に私はいた。
心地よい揺れの中にいた。
揺り籠でもゴンドラでもない。
耳を地に付けると水の流れる音がした。

私は今桃の中にいる。
愛しく包み込み離すまいと全力で抱きしめた大きな桃の中に取り込まれたのだと。
冷たい雪解け水の小川に流されている。

私は頭上を探ってみた。
指が濡れた。
甘い桃の果汁のとろみだった。

私は空が見たくて溢れる雫を浴びながら頭上の柔らかな果肉を掻き分けた。
少しずつ光が挿し込んでいた。
だが突如頭上から血管の浮いた逞しい両腕が私の顔の位置に現れた。
私は声も出ず目を大きく見開いた。
間をおかずその逞しい両腕が私の両脇を掴み持ち上げられていった。
一気に光が世界を塗りつぶし私は咄嗟に瞼を閉じた。
足が固い土の上に乗ったのがわかった。
私は両手で顔を覆って震えていた。
桃の甘い香りがずっと鼻に残っていた。
私の頭や肩にくっついていた桃の皮を誰かが一枚ずつそっと取り除いてくれていた。
私は指の隙間から恐る恐る覗いた。
腰に虎の革を巻いた青年が立っていた。
日に焼けた小麦色の肌の額には一本の小さな角が生えたいた。
その先端はまだ発芽する前の豆のようだった。

人間じゃない。
人間に最も近い鬼の青年。

私の体を覆っていた桃の皮が全て剥がされたことに気付くと私は急に恥ずかしさに襲われ顔を真っ赤にしてその場でうずくまった。
桃の果汁で全身べたついていた。

鬼の青年は大きな胡桃の殻に川の水を掬って私の頭に優しくかけて洗い流してくれた。
何度も往復し無言で水をかけてくれた。

全身のべたつきは洗い流され白桃のような肌が春の陽に照らされた。
とても気持ちがよかった。
私はまだうずくまったまま顔を上げた。
鬼の青年は何も言わないで立っていた。
ありがとうと口を開こうとした私にすっと手を差し伸べてきた。

しばらく私は彼の目を見つめた。
その手に私も手を差し出した。
互いに手を握り合うと私はゆっくり立ち上がった。
不思議と恥ずかしさは消えていた。

轟音をたてて春の嵐の強風が吹き荒れた。
捨てた桃の皮も小枝もたんぽぽの綿毛も巻き上げて吹き飛ばした。
鬼の青年の腰に巻いた虎の革も青い空にのまれていった。

二人は無言で見つめ合った。

辺りが次第に靄に覆われていった。
その靄から桃の甘い香りがする。
手を繋いだ二人は靄の濃い方へ走り去っていった。






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