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【エッセイ】厄祓い完了

天気が味方してくれた。
連日1月並の寒さと氷まじりの冷たい暴風雨だった空が青く澄んでいた。

だいぶ前から予約していた厄祓いの日がとても気持ちの良い師走の一日にピンポイントで重なった。

神主さんの見事な祝詞(のりと)の奏上。
五臓六腑に響き渡る太鼓の音(号鼓)。
静寂の間合いに鳥が囀る。

清らかとはなにか。改めて清められるとはどういうことなのかを考えさせられた。
それは身も心も引き締まる思いに自然となること。
姿勢が正されていく自分に気が付く。
まるで氷水で締められる麺のように。

神事について一般常識の最低限程度の作法は承知しているつもりだが人生初の厄祓いをぶっつけ本番で体験してみてその奥深さに益々興味が湧いてきた。

こんな気持ちになれたのも素晴らしい神主さんにあたったからだと思う。
表現はよろしくないかもしれないが神主さんにもスペックがあると思う。
私は幸運なことにハイスペックな神主さんに厄祓いをしてもらえたのだと思う。
その所作ひとつひとつに気品があり、ひんやりとした空気の本殿で神主さんの着物の擦れる音すら神聖だった。

神を祀るために演じられる神事芸能を神楽というが、厄祓いもそれに該当するのではないか。
だとすると神主さんの要素として芸能のスキルが高いかは重要である。
極端かもしれないが、音痴の神主さんは厳しいかもしれない。
現に今回お世話になった神主さんの祝詞は細川たかしにも負けず劣らずの素晴らしい喉であった。


そして厄祓いは厳かに粛々と執り行われていった。

全ての儀が無事済み、最後に神主さんの厄祓いの起因となるお話が始まった。

「3年間の厄というものの本厄を迎えるわけですが大厄(大役)を担う、背負うと意識していただき時には周囲の方に支えてもらい、そしてまた自ら役(厄)を全うしてください。そのように厄(役)を受け取るということでも意味がございます」←(そのような旨のお話でした)

私は時に目を見開き、ほぉぉ…と納得し、頷いた。

厄を役と変換すれば見方が全然変わってくる。
本厄とは大きな厄、大厄であると同時に大きな役を担う、大役を任せられ、担う側にもなれるのだと。

物は考えようとはよくいったものだが、やっぱり言葉って面白い。
心は言葉ひとつで裏返る。

私は本厄でもむしろこんな素晴らしいことがあった年だったと証明したいと以前noteに書いたが、この考えは昔から日本人はしてきたのだ。
大役を担うなんてワクワクしてくる。

ちなみにそれがこちらの記事です。
      ↓

厄年に怯えるだけのあの日々が今は別人の思考のようだ。

ちなみにその時の記事です。
     ↓



厄祓いは形式的なものかもしれないが、こういうことがない限り日本古来の風習に触れる機会もその歴史の意味を考えることもなかったのだ。

いいものだよ。伝統というものは。
何かしらの意味はあるのだから。
それはこうして触れてみて開ける発見もあるということを厄年にもう既に教えてもらっている。
飛躍の躍、それすら厄なのだから。

なにもかもがすべて背中合わせ。
光も影も。生も死も。そして厄と役も。
それなら選ぶのは自分次第。

素晴らしき解釈の世界。
年が明ければきっといい1年が待っている。
いざ、2024年へ!


それはそうとなんだか厄年3部作になっているような…
あるか…4部作、5部作…え?!シリーズ化?!(もちろん笑えるエッセイとして)




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