【コラム】人を物単位で数える怖さ

ある芸人さんのお話。
その芸人さんは大学を卒業すると地方局のアナウンサーになった。
当時の映像が流れていた。
その芸人さんはよく見かける爽やかで真面目そうで誠実そうな地方局のアナウンサーだった。
そして時は流れその人はアナウンサーをやめ、お笑い芸人になった。

その芸人さんは配信番組であることをさらりと言った。
ネタとしてでも自慢というわけでもなく、つまりは嫌味なく自然とさらりとこう言った。

今まで三百人くらいとヤりました。

アナウンサー時代は入れ食い状態だったと語っていた。
私はどんな早朝の中継でおはようございますと言っている日本中のアナウンサーを見てもその芸人さんがちらついて消えなくなった。
この人たちもこんなに差し障りなく悲しい事件では沈痛な面持ちで原稿を読んでいるけど実は…。
身なりを小綺麗にしても、おかしいくらいに上っ面の姿なのではと考えれば考えるほど薄っぺらくみえた。それは全てに派生してなにもかもが虚構に思えた。馬鹿馬鹿しくなった。

わたしはある物語を想像した。
小さな少年が積み木でお城を作っている。
少年は5才くらいにしておこうか。
それを見守る父親。
世にいうイクメン。
その向こうではこどもの大好きなオムライスを作っている母親がいる。
どこにでもいるような若き夫婦と一人のこどものいる一コマ。微笑ましいとされる一コマ。
少年は父親に問う。
「ねぇ、パパはママと結婚するまでに何人と付き合ってきたの?」
「ませたこと聞くんだな。そうだな〜、正確には数えてないけど三百人以上かな」
「じゃあママは?」
「え?ママはパパと違って遊ばなかったわよ、う〜ん、まぁ二百人くらいかな」


あまりにも極端な話ではあるが、あのさらりと言えてしまう姿にこんなことを妄想してしまったのである。
5才がそんなこと聞かないだろうし意味もわかるまいが、もしこんな会話がされていたらゾッとする。
そんな沢山交わった中で出逢った運命の人なんだよ…と、綺麗事に出来なくもない…か。
時代が選択肢でいっぱいだ。
ランドセルの色も何十色、何百色と選べる。
本来赤と黒でわけていたことがおかしいのよと正論。そうだったのかもしれない。人は解放するととめどない。カラーバリエーションが増えても選ぶ色は結局同じだという実験結果もある。
考え方の波にのれずに深い海に沈み溺れる者もいるのだろう。
そんな金づちには手を差し伸べられない世の中でもある。
天秤を平行に保つことはとても難しい。

だからこそ、なんだか腑に落ちないことや、気持ちがはれないことは大切にしたい。
なんでもありが自由じゃないのだから。

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